チリ(7) つながる海路、最後のフロンティア

今回の旅で、島の日本語ガイドとしてついてくださったのはこちら、よくガイドブックなどで紹介されている島唯一の日本人永住者、最上さん。

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ガイドさん島で滞在中に仕入れた現地情報のほとんどは、この方から聞いた。さすがに15年も住んでいるだけあって島の現在事情にはとても詳しい。島民にも慕われていて、どこへいっても「オ・ラ!(こんにちは) モガミサーン」と声がかかる。

ていうか、私なんかは旅に出る前にその土地に関するガイドブック読みあさって大抵の情報は暗記してから行くから、現地ガイドがガイドブック通りのことしか喋れなかったら物凄くつまんないんだよね。だからいつもはガイドなしの個人旅行で行くんだけど…

フレンドリーだがとことんいい加減なイースター島民のダメダメっぷりを愛おしく語ってくださり、また私のマニアックな質問にも片っ端から答えていただきました。今回は最上さんのおかげで、ほんとうに実りの多い濃い旅になりました。感謝。


島にはほかにも日本語ガイドさんは何人かいるようだったけど、喋ってる内容の深さはやっぱりこの方が別格。イースター島行って日本語ガイドを頼むなら、島の隅々まで知り尽くし、島民とも直談判してくれる最上さんにお願いするのをお勧め。(なんか最近、ほかのガイドに仕事とられてるらしいんで雇ってあげてー!)


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島観光の最後、突然の雨の中訪れたのは島から見て空港の反対側にある、アフ・ピナブ。
ここは、かつて冒険者トール・ヘイエルダールが島を訪れたとき、島の文化はインカ由来だと確信するに至ったインカに似た複雑な石組みが存在する遺跡。

なるほど確かにインカに似ている。

骨から採取されたDNA的にポリネシア系だったことから結果的にヘイエルダール説は今では間違いと考えられているが、島で唯一ここにしか存在しないという精巧な石組みは、確かに不思議ではある。

自説も含まれるので最上さんには話さなかったが、実はポリネシアからイースター島へ渡った人々は、さらに東征してチリに到達していた可能性がある。もともと南米にはニワトリはいなかったが、チリで発掘された古いニワトリの骨は初めて西洋人が南米に到達するより以前のもので、そのDNAはポリネシア系のニワリトのものだった、という研究がある。

※ただし、そのニワトリの骨が本当にイースター島民の運んだものかどうかは不明
※DNA鑑定結果についても諸説ある。関連研究として以下を参照

National Geographic:米国に初めて渡った?ニワトリの骨が論争の種

もともとポリネシア系の人たちがイースター島までやってきたのは、ひたすら新天地を探すフロンティア精神と、増えすぎた人口を賄うため・生きるためという切実な理由からだった。ひたすら東へ東へと居住地を広げてきた彼らが、イースター島より東にもう島がないなど当時は知るはずもない。イースター島に定住が開始され、人口がある程度増えた時点で、さらに東へと航路を開拓しようとしたことは間違いないはずだ。
だとすれば、彼らのうちのいくらかは、チリにもたどり着いていたはずなのである。


石組みを横から確かに島民はポリネシア系。ただしそれは、チリのインカ人との交流を否定するものではない。この石組みは、少数であれ、南米まで行って戻ってきた人がいたか、あるいは南米から移住してきた人がいたということの物証なんではなかろうか。

石組みのある場所が、島の、チリに近い南東海岸であることも、この仮説を補強する。インカ風の石組みがここでしか見られないのは、かつてのイースター島が村どうしご近所どうしで固く結びついていて、他の村とはむしろ敵対関係にあった(だからモアイ地押し戦争にもなった)ことと関係があると思う。異文化の技術がよそからもたらされても、別の村には伝播しなかったのだ。

単にこういう丁寧な石積みが島民のテケトーな性格に合わなかっただけ、という可能性もありそうだが(笑)



わかりにくいけどアフ
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さらに推測をすすめると、このアフ・ピナブに近い火口湖ラノ・カウのあたりの硬い岩で作られた、保存に適した少数のモアイは、「石像っていったら王の権威を恒久的に伝えるものだろ」というインカ的な発想をくんで作られたものということもあるかもしれない。

大英博物館にある小型の硬い岩で作られたモアイは、材質が硬いためにあまり風化しておらず、島にあるほとんどのモアイから失われてしまった体の模様やフンドシの様子がはっきりと分かる。作るのに時間もかかる硬い石の精巧なモアイは、使い捨て目的で作られたほかのモアイとは根本的な発想が異なる気がする。

ラノ・カウの山頂は鳥人崇拝の儀式でつかわれた施設が立ち並ぶ「儀式村」で岩に刻まれた神や鳥人のレリーフも多いが、その中にアフの石組みがあり、かつてはここにもモアイが建てられていたという。

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山頂には、鳥人競争の儀式が行われていた時に使われていた「家」が並ぶ。
家といっても薄い石を積み上げて作られた狭い空間で、雨風さえ凌げればそれでいいや的な適当なつくり。儀式の時期にしか使われなかったらしい。たまに崩れるので作りなおしているらしい…。

ここから見える島に海鳥が飛来すると儀式の始まりで、この儀式村からスタートした各部族の代表者たちが崖を駆け下り島まで泳いで海鳥のたまごを取り、割らないように持って帰ってくる。
いってみればトライアスロン。

最初にたまごを持ち帰った人の所属する部族が、その年一年間、島の代表権を持てたといい、モアイ倒し戦争のように不毛ではない平和的な部族間抗争の解決方法として考案されたという。


なんかこれも、インカの、球技でイケニエ決めてた「花の戦争」という方法に似ている気がする。



海鳥タンガタ・マヌ(アジサシ)が飛来する島は、創造神マケマケのレリーフの並ぶ岩の向こう、いちばん遠くに見えている島。ここから1.5kmほど離れている。

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海流が早く、かつては大型のサメもいたことから、毎年死人の出る危険な競技だったらしい。
ていうか崖を駆け下りる時点でけっこうアレなんだが。

ちなみに、競技の開始が早すぎてまだアジサシが卵産んでなかった年もあるそうで、そんな時は島に泳ぎ着いた競技者は鳥が卵生むまでひたすら何日も待っていたらしい…。

待ってる競技者のために食料を届ける船が出されたとか、待ってるのがヒマな競技者が島に残した落書きが残ってるとか。競技もテキトーなのかよイースター島民。

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なぜかブーゲンビリアが咲いている火口湖の中。ここの火口湖はめっさでっかい。
底までは200mあり、水面に生い茂るトトラ葦はここからだと藻くらいにしか見えないが実は高さ数メートルもある。水の深さは4mから11mと、かなりの深さがあるようで、うっかり転落するとサヨウナラだ。

ちなみに、10年くらい前にこの辺りで行方不明になったアメリカ人の考古学者はまだ見つかっていないらしい…。


島には河川はなく、地下水脈はあるものの水量はさほど多くないが、この火口湖があるおかげで村の水道は確保されている。湖に溜まった水が、火山岩の間を通って常に一定量ずつ村の近くに染み出しているんだそうだ。

島に安定して淡水を確保できる場所があったことも、過去に人口が爆発的に増えた要因だったのだろう。

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晴れていればもっと綺麗だったはずだけどラノ・カウの展望台から見渡す全景。島の東の果て、ポイケ半島までまっすぐに見渡せる。島で一番高いテレバカ山も振り返ればすぐそこ。島のすべてはここから見渡せる。歩けばひたすら果てしない大地に思えるのに、上から見下ろせば、手のひらに載りそうに思えるほど。


ニュージーランドを除けば、ここは地球上で最も遅く人類が入植した土地。そして地球上で最も隔絶された島のひとつ。
こんな世界の果てでも、こんな小さな島でも、人間は村や民族の派閥を作って互いに争いあい、殺し合ってしまう。

だけどそんな人々が、最後に血を流すことの少ない解決方法を見いだせたことには、希望があると言えるのかもしれない。
最終的に彼らは鳥人競争というスポーツで島の支配権を決めることになったのだけれど、それって現代で言えばオリンピックみたいなもんだよな。とか。

現代におけるスポーツの国際試合が、国家の威信をかけた「代理戦争」になっていると言われるのは、あながち間違いでもないのかもしれない。



と、ひととおり島を堪能して、チリ本土へ帰還。
再びサンティアゴの空港に降り立ったら、次はパルパライソの町へ。

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