文化比較における「不必要な事例」の排除について。要するに余計な事例出すなっつーことだよ
異なる文化を比較する場合に、チョイスされる文化が適切ではない事例を幾つか見かけて、ちょっとげんなりした。
異なる事象を比較する際は、内容の検討を始める前に、比較対象の選択が適切かどうかを考えてみよう。
ただ知ってるものを並べればいいのではなく、似てそうだと思いつくものが多いほどいいのでもない。
どういうことかというと、こういうこと。
<例1>ヴァイキング時代の墓には、埋葬に船を伴うものがある。日本の古墳にも舟形埴輪が備えられることがある。埋葬に船を共通している。
→不適切な比較。
ヴァイキングの文化と古墳時代の日本の文化には全く関連がなく、しかも前者は船の中に遺体を埋葬し、後者は船の形をしたオブジェを他のたくさんのバリエーションのオブジェとともに並べてあるため、使い方も全然違う。ヴァイキング時代の船葬と舟型埴輪の間には「墓と船が関連している」くらいの繋がりしかなく、そもそも並べて比較する必要が無い。
<例2>インカの精緻な石積みは高い石工技術を持っていたローマ兵の仕事を思わせる。
→不適切な比較。
インカとローマ文化には全く関連がなく、ローマ人が新大陸に渡った事実もない。また石積みの工法も全く違う。権力者が民衆や兵士を動員して作らせたことだけは共通しているが、ローマ至上主義でもなければ敢えてローマを出す必要がない。
いかかだろうか?
例1と例2、どっちがマシだと思っただろうか。まだ例2のほうがマシに見えたかもしれないが、例2はこのあと「ゆえに私はこの地にもローマが到達していたと考える。ここは知られざるローマの遺跡だったのだ」という内容が続く。
実を言うと、例1は人文学で大学教授をしている先生の書いた本の内容で、例2はまだインカ文明がそれほど研究されていなかった時代の学者が書き残した内容である。(そして超古代文明がブームだった頃には同様の内容が大真面目に語られてもいた)
前者は「似てると思う!」で終わり、後者は「似てるし、もしかして繋がってるんじゃない?」まで想像力を飛躍させているが、やってることは全く同じである。無関係な文化を2つ並べて、不適切な比較を行っている。結論部分で一般常識の範囲に留めるか、ちょっとトバしてデカいことを言うかの違いだけである。
そもそも、オカルトとまともな学問との違いは何なのか。
私は、考え方の違い、情報の整理の仕方、理論の組み立て方といった手法の部分だと思っている。
考え方がオカルト寄りなのに最後に出してくる結論だけ仲間の学者や先人の出した答え、世間一般の認識に合わせてくるだけというのは、数式の意味は理解してないけど答えだけは覚えている、という状態に近い。なので、世の中に知られている答えが間違っていたとしても、それに気づくことが出来ない。全く新しい問題が出てきた時に、最も妥当な答えが何なのかを導き出すことが出来ない。
過去の論文や他者の本の内容を切り貼りだけして自分の成果として出してくる学生さんとかによく見かけるタイプだし、大規模掲示板とかSNSでもよくあるパターンだけど、それ本職がやっちゃダメだから…。
インテリのはずなのに陰謀論とかハマる人もだいたいこれ。
考え方の手法がオカルトと同じなので、自分の詳しいジャンル(=答えを知ってるジャンル)だとまともなのに、それ意外になると途端に崩れる。
あるものと別のものを比較するときは、「似てる/似てない」とか「共通する/しない」の前に、まず、その比較は必要なのか? 比較対象として妥当なのか? を必ず検討しよう。
前提となる情報の選択が不適切で、しかも理論を組み立てる手法が間違っているのでは、当然、たどり着ける答えも妥当なものにはならないのだから。
異なる事象を比較する際は、内容の検討を始める前に、比較対象の選択が適切かどうかを考えてみよう。
ただ知ってるものを並べればいいのではなく、似てそうだと思いつくものが多いほどいいのでもない。
どういうことかというと、こういうこと。
<例1>ヴァイキング時代の墓には、埋葬に船を伴うものがある。日本の古墳にも舟形埴輪が備えられることがある。埋葬に船を共通している。
→不適切な比較。
ヴァイキングの文化と古墳時代の日本の文化には全く関連がなく、しかも前者は船の中に遺体を埋葬し、後者は船の形をしたオブジェを他のたくさんのバリエーションのオブジェとともに並べてあるため、使い方も全然違う。ヴァイキング時代の船葬と舟型埴輪の間には「墓と船が関連している」くらいの繋がりしかなく、そもそも並べて比較する必要が無い。
<例2>インカの精緻な石積みは高い石工技術を持っていたローマ兵の仕事を思わせる。
→不適切な比較。
インカとローマ文化には全く関連がなく、ローマ人が新大陸に渡った事実もない。また石積みの工法も全く違う。権力者が民衆や兵士を動員して作らせたことだけは共通しているが、ローマ至上主義でもなければ敢えてローマを出す必要がない。
いかかだろうか?
例1と例2、どっちがマシだと思っただろうか。まだ例2のほうがマシに見えたかもしれないが、例2はこのあと「ゆえに私はこの地にもローマが到達していたと考える。ここは知られざるローマの遺跡だったのだ」という内容が続く。
実を言うと、例1は人文学で大学教授をしている先生の書いた本の内容で、例2はまだインカ文明がそれほど研究されていなかった時代の学者が書き残した内容である。(そして超古代文明がブームだった頃には同様の内容が大真面目に語られてもいた)
前者は「似てると思う!」で終わり、後者は「似てるし、もしかして繋がってるんじゃない?」まで想像力を飛躍させているが、やってることは全く同じである。無関係な文化を2つ並べて、不適切な比較を行っている。結論部分で一般常識の範囲に留めるか、ちょっとトバしてデカいことを言うかの違いだけである。
そもそも、オカルトとまともな学問との違いは何なのか。
私は、考え方の違い、情報の整理の仕方、理論の組み立て方といった手法の部分だと思っている。
考え方がオカルト寄りなのに最後に出してくる結論だけ仲間の学者や先人の出した答え、世間一般の認識に合わせてくるだけというのは、数式の意味は理解してないけど答えだけは覚えている、という状態に近い。なので、世の中に知られている答えが間違っていたとしても、それに気づくことが出来ない。全く新しい問題が出てきた時に、最も妥当な答えが何なのかを導き出すことが出来ない。
過去の論文や他者の本の内容を切り貼りだけして自分の成果として出してくる学生さんとかによく見かけるタイプだし、大規模掲示板とかSNSでもよくあるパターンだけど、それ本職がやっちゃダメだから…。
インテリのはずなのに陰謀論とかハマる人もだいたいこれ。
考え方の手法がオカルトと同じなので、自分の詳しいジャンル(=答えを知ってるジャンル)だとまともなのに、それ意外になると途端に崩れる。
あるものと別のものを比較するときは、「似てる/似てない」とか「共通する/しない」の前に、まず、その比較は必要なのか? 比較対象として妥当なのか? を必ず検討しよう。
前提となる情報の選択が不適切で、しかも理論を組み立てる手法が間違っているのでは、当然、たどり着ける答えも妥当なものにはならないのだから。