殯の森のいまむかし。「土葬の村」

オススメに出てきた本をホイホイ読むのも休日ならでは。
初夏の日差し差し込むカフェで優雅に開く本が死者の埋葬習慣にまつわる本、それもまた良し。

この本のメインは、主に奈良県東部の、土葬習慣の残る村々を取材した、土葬の葬送儀礼とはどのようなものなのか、という記録である。
他に、奈良以外の地域の土葬の風習、変わったところでは与論島でかつて行われていた風葬やインド、タイにおける習慣など。また、先祖代々の風習ではなく、現代において新たに新たに土葬を選ぼうとする人々はどのような手段で願いを叶えるか、といった話が書かれている。

土葬の村 (講談社現代新書) - 高橋繁行
土葬の村 (講談社現代新書) - 高橋繁行

取り上げられている村の位置はココ
このあたりのエリアでは今も土葬が残っているが、ここ10年ほどで急速に土葬は減りつつある、という。理由が「近くに火葬場が出来たから」とか「葬儀社がぜんぶやってくれるのが楽」とか、あと「若い人たちが都市部に出ちゃってるから」とか…理由も近代的というか、おそらく少子化なども絡んでくるのだろう。

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ぶっちゃけ、土葬に限らず「家族が葬儀の準備をする」というのは、体力的にも、精神的にもかなりキツい。
私もむかし、父方の祖母が自宅で亡くなった時に遺体を整えるのを手伝ったのだが、死ぬとしばらくして筋肉が緩んできて色々垂れ流すのを拭き取るのがとても大変だったのを覚えている。
寝たきりでオムツ履いてたので腸を押して残り物を出すとか。
あと移動させる時に漏れないように穴という穴に綿詰めたりね。

体を拭くために起こそうとすると、痩せて小柄なのに重たい。死んだ人間がめちゃくちゃ冷たい、ということも、あの時に知った。確かに、あれを遺族で毎回やるのは、若い人手がたくさんないと無理だろうな。
しかも土葬だと、そのあと、あの重たい遺体を棺桶につめ、担いで墓場まで行かなきゃならんのである。
若者が都市部に出てしまい、一族の人数が減れば、持続困難になるだろうなというのは想像がつく。

しかし、それでも土葬習慣が残っている村はある。儀式を簡略化したり、手間のかかる屈葬をやめて寝棺にしたり、と工夫をしているそうなのである。
生活が豊かになるにつれて葬送儀礼が複雑化し、その後は簡略化されていく、という過程は、世界中の色んな宗教で見られる。
そもそも古代には、複雑な葬送儀礼は首長や王など特権階級のものだった。それが民衆に広まったあと、再び一部の人だけのものに戻っていく。普遍の儀礼などないのだから、これも時代というやつである。ただし、そんな時代の変化の中でもしぶとく残っていく概念がある、というのは面白い。

ちなみに、現代の日本ではべつに土葬は禁止ではないらしい。
ただし、土葬できる場所が限られてくる。
一般的な寺社では土葬を受け付けていないから、必然的に楽な(そして安価な)火葬のほうに流れる、ということのようだ。少しだけ他の国の事情も載っていたが、アメリカなどキリスト教の国でもそこそこ火葬の割合があるのは意外だった。

そもそも現代において、土葬をしなければならない理由はあるのだろうか。
というか、科学的な観点では「魂」や「死後の世界」が存在するとは信じられないこのご時世において、どこまで葬送儀礼を伝統に沿ってやる意味があるのだろうか。

時代が急速に変化しつつあるのと連動して、現代における「死」の捉え方も、おそらく、数十年前とはかなり違っている。それが、土葬の風習の消失や簡略化、という形で現れているだけで、火葬の習慣を持つ家族だって、きっと何か変化しているはずなのだ。(端的に言えば、都会のマンションの一室にわざわざ仏壇置いてる家は、そう多くはない。)

だとすれば、葬送儀礼も概念に合わせて変化していかざるを得ないのだろうな、と思った。