アフリカの人々はなぜマダガスカルに移住しなかったのか。その答えは「ド田舎だったから」の可能性
マダガスカル島は、アフリカ本体から400kmほど離れたところに位置する大きな島だ。
この島は何故かアジアからの移住者(マレー系)が多く、主食もアジアから伝来したと思われるお米。まとまって定住しはじめたのはここ数千年の間のこととされ、近年まで古い遺跡はほとんど見つかっていなかった。
少なくとも、都市が出来始めたのはここ千年くらいの間。一体なぜ、近いアフリカからではなく、はるかに遠いアジアからやってきたのか? というのが、ここ数年来ずっと気になっていた内容だった。
ネットでググっても本を探してもこの疑問に対するズバリな答えは書いていなかったので、自分で資料探しに行ってきた。
結論から言うと、
・近くのキルワやソファラまでは古代から主要交易ルートに所属しているが、マダガスカルはそのルートが外れているド田舎
・主要交易品の産地ではない
→ 街や港を敢えて築く必要性が無かったため意図して移住はしなかった
バンツー語族の人々が海洋航海の技術をもっていなかったわけではない。アフリカ系住人にとっては特に旨味もないのでわざわざ行かないかな~みたいな感じで、漂流してたどり着いちゃっても帰ればいいだけだった。(実際、彼らは東アフリカ沿岸部の海洋交易には参加している)
アジアから来た人々は、おそらく漂流者か亡命者であり、帰れなかったので定住したのだと思われる。
マダガスカル島に人類が到達したのはいつなのか。「最古の遺物」と「生物の大量絶滅」から
https://55096962.seesaa.net/article/201912article_4.html
→疑問はここから始まった。
マダガスカル島への哺乳類の移住方法とは/人間とそれ以外
https://55096962.seesaa.net/article/202002article_7.html
参考: 外務省のマダガスカル共和国データ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/madagascar/index.html
マダガスカルへの移住ルート
ちなみに対岸のアフリカはバンツー語族の領域、現代では島の西側には彼らが移住してきている。
まず、こちらがインド洋を中心とした主要な交易ルートと特損品である。
このルートは古代エジプト末のプトレマイオス朝には既にある程度確立され、ローマ支配時代には盛んに使われていた。その内容は「エリュトゥラー海案内記」でも紹介されている。
このルートから微妙にずれている(やや南)のがマダガスカル島。
ザンジュまでは交易都市が築かれ、人が集まってきているのだが、島のほうに向かうルートや経由するルートが無い。東アフリカの住民にとっては、意図して渡る意味合いが薄いのである。
これだけ大きな面積を持ちながら、千年前ほど前まで大きな集落が無かったのも、「実は主要交易ルートからズレた田舎だった」と理解すれば別に不思議ではない。
だが、モンスーンの風の影響で、アジアからこの島へは漂流すればたどり着けてしまう。
アジアからの最初の移住者は漂流か亡命だったのでは、と思ったのは、ここの部分だ。
8世紀以降、アフリカにはイスラム教圏からの移住者が流れ込み、イスラム化が進んでいく。
しかしイスラム住民が町を作っていくのはソファラあたりまで。また、マダガスカル島への航海ルートも作られはするものの、珍しい動物を積み出す程度だったのか、あまり目立った記録や交易品の流れが見えてこない。これ以前に大きな都市が無かったとしても不思議はないな、という感じだ。
アフリカ系住人が入っていくのは、このあたりからではないかと思う。
※地図資料は以下の本から抜き出した
インド洋海域世界の歴史 ――人の移動と交流のクロス・ロード (ちくま学芸文庫) - 家島 彦一
というわけで、最初に戻ると、マダガスカル島へアフリカ系住民がまとまって移住しなかった現象の理由は、
・敢えて移住する意味がなかった
・東アフリカ住民は漂着しても帰れた
・アジア系住民が最初にいついたのは、帰れなかったからだった可能性
これが、自分の出した結論となる。
こうまとめると、かつてのマダガスカル、そもそもあんまり魅力のない土地だったのかもなあ、と思ってしまう。
というか、独自発達した珍獣や見たこともない植物がわんさとある時点で、全然馴染みのないリスクの高い土地だったのは間違いない。どの動物が食えるのか、とか、毒のある植物はどれなのか、とか、ほぼイチから探索していかなきゃならんわけなので…。
しかしそんな島でも、結局、人間は無理やり住むようになった。そして独自の動植物の多くが消えていった。
人間の生命力と適応力の高さってハンパないな、と改めて思った次第である。
この島は何故かアジアからの移住者(マレー系)が多く、主食もアジアから伝来したと思われるお米。まとまって定住しはじめたのはここ数千年の間のこととされ、近年まで古い遺跡はほとんど見つかっていなかった。
少なくとも、都市が出来始めたのはここ千年くらいの間。一体なぜ、近いアフリカからではなく、はるかに遠いアジアからやってきたのか? というのが、ここ数年来ずっと気になっていた内容だった。
ネットでググっても本を探してもこの疑問に対するズバリな答えは書いていなかったので、自分で資料探しに行ってきた。
結論から言うと、
・近くのキルワやソファラまでは古代から主要交易ルートに所属しているが、マダガスカルはそのルートが外れているド田舎
・主要交易品の産地ではない
→ 街や港を敢えて築く必要性が無かったため意図して移住はしなかった
バンツー語族の人々が海洋航海の技術をもっていなかったわけではない。アフリカ系住人にとっては特に旨味もないのでわざわざ行かないかな~みたいな感じで、漂流してたどり着いちゃっても帰ればいいだけだった。(実際、彼らは東アフリカ沿岸部の海洋交易には参加している)
アジアから来た人々は、おそらく漂流者か亡命者であり、帰れなかったので定住したのだと思われる。
マダガスカル島に人類が到達したのはいつなのか。「最古の遺物」と「生物の大量絶滅」から
https://55096962.seesaa.net/article/201912article_4.html
→疑問はここから始まった。
マダガスカル島への哺乳類の移住方法とは/人間とそれ以外
https://55096962.seesaa.net/article/202002article_7.html
参考: 外務省のマダガスカル共和国データ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/madagascar/index.html
マダガスカルへの移住ルート
ちなみに対岸のアフリカはバンツー語族の領域、現代では島の西側には彼らが移住してきている。
まず、こちらがインド洋を中心とした主要な交易ルートと特損品である。
このルートは古代エジプト末のプトレマイオス朝には既にある程度確立され、ローマ支配時代には盛んに使われていた。その内容は「エリュトゥラー海案内記」でも紹介されている。
このルートから微妙にずれている(やや南)のがマダガスカル島。
ザンジュまでは交易都市が築かれ、人が集まってきているのだが、島のほうに向かうルートや経由するルートが無い。東アフリカの住民にとっては、意図して渡る意味合いが薄いのである。
これだけ大きな面積を持ちながら、千年前ほど前まで大きな集落が無かったのも、「実は主要交易ルートからズレた田舎だった」と理解すれば別に不思議ではない。
だが、モンスーンの風の影響で、アジアからこの島へは漂流すればたどり着けてしまう。
アジアからの最初の移住者は漂流か亡命だったのでは、と思ったのは、ここの部分だ。
8世紀以降、アフリカにはイスラム教圏からの移住者が流れ込み、イスラム化が進んでいく。
しかしイスラム住民が町を作っていくのはソファラあたりまで。また、マダガスカル島への航海ルートも作られはするものの、珍しい動物を積み出す程度だったのか、あまり目立った記録や交易品の流れが見えてこない。これ以前に大きな都市が無かったとしても不思議はないな、という感じだ。
アフリカ系住人が入っていくのは、このあたりからではないかと思う。
※地図資料は以下の本から抜き出した
インド洋海域世界の歴史 ――人の移動と交流のクロス・ロード (ちくま学芸文庫) - 家島 彦一
というわけで、最初に戻ると、マダガスカル島へアフリカ系住民がまとまって移住しなかった現象の理由は、
・敢えて移住する意味がなかった
・東アフリカ住民は漂着しても帰れた
・アジア系住民が最初にいついたのは、帰れなかったからだった可能性
これが、自分の出した結論となる。
こうまとめると、かつてのマダガスカル、そもそもあんまり魅力のない土地だったのかもなあ、と思ってしまう。
というか、独自発達した珍獣や見たこともない植物がわんさとある時点で、全然馴染みのないリスクの高い土地だったのは間違いない。どの動物が食えるのか、とか、毒のある植物はどれなのか、とか、ほぼイチから探索していかなきゃならんわけなので…。
しかしそんな島でも、結局、人間は無理やり住むようになった。そして独自の動植物の多くが消えていった。
人間の生命力と適応力の高さってハンパないな、と改めて思った次第である。