需要がニッチすぎるが面白い、ケニアの呪術の民族誌「信念の呪縛」
タイトルと説明と表紙見て「アッこれ絶対おもしろいやつやん」とポチった本。
たまに圧倒的な存在感で呼びかけてくる本あるからね…まぁそういうのってだいたい面白いのよ、うん。
需要はたぶんそんなに無い、あと分厚さとお値段からしてもめちゃくちゃ売れることはほぼ無いんだけど、同じ趣向の人ならニコニコ顔で読めると思うんだ。
信念の呪縛──ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌── - 浜本 満
この本は、ケニアの同じ地域にフィールドワークとして30年ほど通っていた研究者が、その研究歴の中で触れた現地の「呪術」の実態に関する記録と考察である。ケニアの社会では、かつてより弱まりつつ今も呪術が息づいている。しかしそれは決して「未開」とか「迷信」とかではない。
人々が自ら呪術を現実のものとして作り上げていく。自らの体験を呪術の文脈で語り物語の中に生きようとする。
心理学でいうと「ソーシャルリアルティ」そのものである。
たとえば、身内が何か突然の不幸で亡くなったとする。おまけに自分も体の調子が悪い。些細なことで夫婦喧嘩をしてしまう。
そんな時に、原因を「誰かが呪術をかけたのだ」と考える。そして誰が自分を呪ったのか探るために占い師のところへいく。
占い師はアバウトなことしか言わないが、その答えから「きっとxxさんだ」と自分の中で決め打ちする。
そして、不幸の原因は、偶然でも、自分のせいでもなく、他人のものとなる――。
これは日本でもよくある思考パターンだと思う。
日本では呪術による不幸はあまり信じられていないが、たとえば血液型占いや星座占いを強く信じている人がいたらどうだろうか。
「自分はAB型なのだから優柔不断でも仕方がない」と強く信じてそのストーリーの中で生きるなら、それはまさに「信念の呪縛」、ケニアの社会で信じられている呪術と同じものとなる。また星座占いで「今日は運が良くないので家にいたほうがいい」と出ていたのに外出して交通事故に会い、それを占いの結果に結びつけるとしたらどうなるだろう。
日本では、血液型占いにしても星座占いにしても「個人」単位だが、それが「家族」や「氏族」単位になり、氏族内の不幸が自分にも関わってくると考えるようになれば、呪術の存在に縛られた地域社会が誕生する。
この本の内容をざっくりまとめると、こういう感じだ。
人々の信念が呪術を現実のものと成し、自らをも呪縛する。読み進めていくにつれ、タイトルは実にうまく考えて付けられていると思った。
面白いと思ったのは、この呪術社会においてイスラム教の魔神「ジン」も呪術の一部に取り入れられているということ、キリスト教では「キリストの力はあらゆる呪術より強い」という布教のされ方をしていて、寿々から身を守るために改宗する人がいるということ。
また、呪術師を吊るし上げる魔女裁判みたいなものが地域の長老たちの間で行われているらしいということだった。
警察とは別に長老が裁く範囲がある、というのは、アフリカの他の国、たとえばソマリアなどでも読んだことがあるが、呪術師とみなされた者への裁きを担当するというのはなかなか面白い。というか神明裁判みたいなところもある。クガタチみたいなこともやっているし。
ちょいちょい入る著者の自分語りや、「自分も呪術をかけられたけど、もちろん効くはずがない。」みたいな冷静なツッコミなども面白く、文章も読みやすいので分厚いけれどさいごまで面白く読めた。
なお一番面白いのは、参考文献の後ろに隠れるように存在する「あとがき」部分のやりとりで、なぜケニアに今も呪術が存在しつづけているのか、という本質に迫っているように思われる。時間のない人は冒頭の「序論」とそこだけでも読んでみるといいと思う。
こういうニッチな本があるところが、日本の出版業界のいいとこだと思うのです。
たまに圧倒的な存在感で呼びかけてくる本あるからね…まぁそういうのってだいたい面白いのよ、うん。
需要はたぶんそんなに無い、あと分厚さとお値段からしてもめちゃくちゃ売れることはほぼ無いんだけど、同じ趣向の人ならニコニコ顔で読めると思うんだ。
信念の呪縛──ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌── - 浜本 満
この本は、ケニアの同じ地域にフィールドワークとして30年ほど通っていた研究者が、その研究歴の中で触れた現地の「呪術」の実態に関する記録と考察である。ケニアの社会では、かつてより弱まりつつ今も呪術が息づいている。しかしそれは決して「未開」とか「迷信」とかではない。
人々が自ら呪術を現実のものとして作り上げていく。自らの体験を呪術の文脈で語り物語の中に生きようとする。
心理学でいうと「ソーシャルリアルティ」そのものである。
たとえば、身内が何か突然の不幸で亡くなったとする。おまけに自分も体の調子が悪い。些細なことで夫婦喧嘩をしてしまう。
そんな時に、原因を「誰かが呪術をかけたのだ」と考える。そして誰が自分を呪ったのか探るために占い師のところへいく。
占い師はアバウトなことしか言わないが、その答えから「きっとxxさんだ」と自分の中で決め打ちする。
そして、不幸の原因は、偶然でも、自分のせいでもなく、他人のものとなる――。
これは日本でもよくある思考パターンだと思う。
日本では呪術による不幸はあまり信じられていないが、たとえば血液型占いや星座占いを強く信じている人がいたらどうだろうか。
「自分はAB型なのだから優柔不断でも仕方がない」と強く信じてそのストーリーの中で生きるなら、それはまさに「信念の呪縛」、ケニアの社会で信じられている呪術と同じものとなる。また星座占いで「今日は運が良くないので家にいたほうがいい」と出ていたのに外出して交通事故に会い、それを占いの結果に結びつけるとしたらどうなるだろう。
日本では、血液型占いにしても星座占いにしても「個人」単位だが、それが「家族」や「氏族」単位になり、氏族内の不幸が自分にも関わってくると考えるようになれば、呪術の存在に縛られた地域社会が誕生する。
この本の内容をざっくりまとめると、こういう感じだ。
人々の信念が呪術を現実のものと成し、自らをも呪縛する。読み進めていくにつれ、タイトルは実にうまく考えて付けられていると思った。
面白いと思ったのは、この呪術社会においてイスラム教の魔神「ジン」も呪術の一部に取り入れられているということ、キリスト教では「キリストの力はあらゆる呪術より強い」という布教のされ方をしていて、寿々から身を守るために改宗する人がいるということ。
また、呪術師を吊るし上げる魔女裁判みたいなものが地域の長老たちの間で行われているらしいということだった。
警察とは別に長老が裁く範囲がある、というのは、アフリカの他の国、たとえばソマリアなどでも読んだことがあるが、呪術師とみなされた者への裁きを担当するというのはなかなか面白い。というか神明裁判みたいなところもある。クガタチみたいなこともやっているし。
ちょいちょい入る著者の自分語りや、「自分も呪術をかけられたけど、もちろん効くはずがない。」みたいな冷静なツッコミなども面白く、文章も読みやすいので分厚いけれどさいごまで面白く読めた。
なお一番面白いのは、参考文献の後ろに隠れるように存在する「あとがき」部分のやりとりで、なぜケニアに今も呪術が存在しつづけているのか、という本質に迫っているように思われる。時間のない人は冒頭の「序論」とそこだけでも読んでみるといいと思う。
こういうニッチな本があるところが、日本の出版業界のいいとこだと思うのです。