古代エジプトの書紀坐像から考える、「職業への概念」

古代エジプトの私人像(王や貴族ではない一般庶民の作らせた像)には、美術的にすぐれたものが少なくないのだが、その中でも書紀坐像は特に目を引く存在だ。こういう↓やつなのだが、書紀という職業の人が、自分の仕事中の姿を永遠に留めたものである。

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古代世界における書紀は高給取りのいい職業で、現代でいえば、医者・弁護士・代議士とか、いわゆる「士族」クラスに当たるトップエリートだ。そんな彼らなので、これらの像は自らのステータスシンボルとして作らせたのだろうとすぐに想像がつく。

しかし、しかしである。
何もお仕事中の姿じゃなくても良くない?? しかもこんな臨戦態勢って。


●他の職業だと、そこまで臨戦態勢じゃない

他の職業でも、職業の分かる像を作らせている人はいる。たとえばこちらの、船大工の像などである。
書紀坐像の時代もだいたい同じ、でも手に道具を持ってるだけ。たしかに「船大工の仕事中の姿」って像では表現しにくいとは思うが、座って木材を加工してるくらいはつくれなくもないだろうし、敢えて仕事中の姿にこだわる理由は無かったのだと判断する。

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●書記だけが「お仕事中」の姿で表現された理由は何か

…というところが、どうしても気になっているのである。
古代エジプトの石像は、のちのギリシャ彫刻のように動きを表現しない(技術的にも難しい)。だから動きのない職業でなければ仕事中の姿をつくれなかった、という事情はあると思う。
しかし、このいきいきとした表現や、敢えて「顔を上げて」誰かの指示を待つような仕草をしているところからして、死後もお仕事する気満々で像を作ったように感じられるのだ。

だとすれば、仕事の指示をする上司は、冥界にいる神々と思われる。たとえば冥界の王オシリス神の法廷で死者を裁く役割を担う書記神トトとか。
もし、この想像があたっているのだとすれば、書記の皆さんは、死後の楽園でも永遠にお仕事ライフする気満々でこの像を作っていたことになる。

…マジメか?


●書記たちの職業に対する矜持とは

もちろん、像を作った本人たちが何を考えていたかまでは分からないので、理由は想像になる。
しかし像にしてあの世に持っていくからには、職業を自分のステータスシンボル、あるいはアイデンティティとしていて、「死後も生前の職業を続ける」という概念があったと考えるのが自然だと思うのだ。
像を作らない時代においても、何か誇れる仕事に就いていた場合は、墓の壁画や棺の肩書に生前の職業を記載するのが一般的だ。つまり「書記xx」と職業まで入れたものが魂の名前になるわけである。
日本においても、死後の名前である戒名に生前の職業に応じた文言を入れる宗派があるが、それに近いかもしれない。

書記はハイランクな職業だったわけだが、その職業に誇りを持って生きたからこそ、こういう像の作り方をしたのかなと思う。


●とはいえ…

とはいえ、何も仕事中の姿を像にする必要はないのでは、と自分なら思ってしまう。
死後も永遠にお仕事させられるのもちょっとな。死んだらぐうたら寝てたい。

書記坐像の格好って、データセンターの床に座って膝の上にコンソール置いてる時のITエンジニアの姿にちょっと似てたりするわけですけども、その姿で像にはされたくない…なあ…せめてデスクに座ってるほうで…



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なお、新王国時代以降の私人墓の壁画からすると、死後の世界でも労働は存在するという概念はあった。

死後も生前と同じ暮らしが続いていく、という概念はその時点では出来上がっている。ただし自分が仕事をするわけではなく、身代わりの召使いなどにやらせる。シャブティ像はそのために墓に入れられた。
同時に、リアルな「お仕事中」の像もシャブティ像が登場するあたりにはもう消えている。(ここはちゃんと時代を調べないといけないが…)

生前の職業、しかも自分自身が「お仕事中」の姿で像を作らせるというのは、やはり、死後も永遠にお仕事しつづける気だったんじゃないかと思うんですよね。
あるいは、究極の社畜とでも言うべきなのかもしれない…。