エジプト・カイロ博物館(タハリール広場にある旧博物館)、120周年記念
開館準備の進む第エジプト博物館とは別に、古くからあるタハリール広場のカイロ博物館のほうもリニューアルして120周年記念イベントを開催。
1902年にこの場所に移ってきて開館した中東地域で最古の、歴史ある博物館…なのだが、歴史がありすぎて建物も設備も古いしアクセシビリティもよくない、建物そのものが考古学遺物みたいな場所なのだ。
Egyptian Museum in Tahrir celebrates 120th anniversary with exhibition
https://english.ahram.org.eg/NewsContent/9/44/479789/Antiquities/Museums/In-Photos-Egyptian-Museum-in-Tahrir-celebrates-th-.aspx
で、ついでなので、この博物館の来歴をここでおさらいしておきたい。
まず、この博物館はもともと、出土した遺物の倉庫からスタートした。
■1806年 エジプト、オスマン・トルコから独立
そして財政難になり、エジプトブームのヨーロッパに向けて遺物を売り払ったり贈答品にしたりしはじめる。
政府からしてその状態なので盗掘も横行。
ヨーロッパの学者たちが憂慮しはじめる
■1834年 最初の小さな博物館が設立される
この当時は旧市街のエズベキヤ・ガーデンに作られていたが、めぼしいものは政府が徴用して外国への贈答品に使ってしまうなど博物館としての役割はあまり果たせなかったという。また作成しようとしていたカタログも不完全だった。
■1857年 サイード・パシャがオーギュスト・マリエットに博物館の設立を依頼
エジプトで発掘していたマリエットが直接打診を受けて博物館の前身となる遺物の保管所を設立。遺物の海外流出を厳しく取り締まるようになる。
ちなみにマリエットはルーブル美術館で働いていたプロであり、当時のエジプト側にはいない人材だった。
■1863年 ブーラーク博物館が開館
ブーラーク広場に現在より小さな規模の博物館が開館、マリエットが初代館長に就任
マリエットは1881年死去
■1891年 ギザ・パレスに移転
収蔵品が建物に収まりきらなくなったため大きめの建物に遺物を移す
同時に、タハリール広場の隣に現在のカイロ博物館の建設が開始される
■1902年 タハリール広場に新しく博物館が開館
ここで現在の博物館になる。
フランスといえばナポレオン遠征の「エジプト誌」、ヒエログリフを解読したシャンポリオンなどでも知られているが、最初の博物館を作ったのも、遺物の国外持ち出し禁止のルールを作ったのもフランス人だったのだ。
(ちなみにツタンカーメンの墓を発掘したカーターはイギリス人)
ちなみに、この3回ほど移転している博物館は、初代館長がフランス人のマリエットだった流れを組んで1952年まで歴代ずっとフランス人が館長を務めていた。エジプト考古学でフランスの影響が大きいのは、そのへんの事情もある。
イギリスやフランス、そしてイタリアなど、昔からエジプト考古学の世界に深く足を突っ込んでる国には、百年をゆうに越える歴史がある。
一方で日本が発掘や考古学のジャンルに参加しはじめたのは、アブ・シンベル神殿がダムに水没することになり、ユネスコが救済に乗り出した1960年代ごろからなので、せいぜい六十年といったところ。それは短いようにも思えるが、現在建設中の新博物館は日本の支援によるものなのだから、まぁずいぶん気張って食い込みましたねという感じ。
その博物館の開館も、伸びに伸びていつになるやらなのだが…今年こそはそろそろ…そろそろ…。
1902年にこの場所に移ってきて開館した中東地域で最古の、歴史ある博物館…なのだが、歴史がありすぎて建物も設備も古いしアクセシビリティもよくない、建物そのものが考古学遺物みたいな場所なのだ。
Egyptian Museum in Tahrir celebrates 120th anniversary with exhibition
https://english.ahram.org.eg/NewsContent/9/44/479789/Antiquities/Museums/In-Photos-Egyptian-Museum-in-Tahrir-celebrates-th-.aspx
で、ついでなので、この博物館の来歴をここでおさらいしておきたい。
まず、この博物館はもともと、出土した遺物の倉庫からスタートした。
■1806年 エジプト、オスマン・トルコから独立
そして財政難になり、エジプトブームのヨーロッパに向けて遺物を売り払ったり贈答品にしたりしはじめる。
政府からしてその状態なので盗掘も横行。
ヨーロッパの学者たちが憂慮しはじめる
■1834年 最初の小さな博物館が設立される
この当時は旧市街のエズベキヤ・ガーデンに作られていたが、めぼしいものは政府が徴用して外国への贈答品に使ってしまうなど博物館としての役割はあまり果たせなかったという。また作成しようとしていたカタログも不完全だった。
■1857年 サイード・パシャがオーギュスト・マリエットに博物館の設立を依頼
エジプトで発掘していたマリエットが直接打診を受けて博物館の前身となる遺物の保管所を設立。遺物の海外流出を厳しく取り締まるようになる。
ちなみにマリエットはルーブル美術館で働いていたプロであり、当時のエジプト側にはいない人材だった。
■1863年 ブーラーク博物館が開館
ブーラーク広場に現在より小さな規模の博物館が開館、マリエットが初代館長に就任
マリエットは1881年死去
■1891年 ギザ・パレスに移転
収蔵品が建物に収まりきらなくなったため大きめの建物に遺物を移す
同時に、タハリール広場の隣に現在のカイロ博物館の建設が開始される
■1902年 タハリール広場に新しく博物館が開館
ここで現在の博物館になる。
フランスといえばナポレオン遠征の「エジプト誌」、ヒエログリフを解読したシャンポリオンなどでも知られているが、最初の博物館を作ったのも、遺物の国外持ち出し禁止のルールを作ったのもフランス人だったのだ。
(ちなみにツタンカーメンの墓を発掘したカーターはイギリス人)
ちなみに、この3回ほど移転している博物館は、初代館長がフランス人のマリエットだった流れを組んで1952年まで歴代ずっとフランス人が館長を務めていた。エジプト考古学でフランスの影響が大きいのは、そのへんの事情もある。
イギリスやフランス、そしてイタリアなど、昔からエジプト考古学の世界に深く足を突っ込んでる国には、百年をゆうに越える歴史がある。
一方で日本が発掘や考古学のジャンルに参加しはじめたのは、アブ・シンベル神殿がダムに水没することになり、ユネスコが救済に乗り出した1960年代ごろからなので、せいぜい六十年といったところ。それは短いようにも思えるが、現在建設中の新博物館は日本の支援によるものなのだから、まぁずいぶん気張って食い込みましたねという感じ。
その博物館の開館も、伸びに伸びていつになるやらなのだが…今年こそはそろそろ…そろそろ…。