新石器時代の上メソポタミアの人々はどこからやってきた? ゲノム解析から見る人の移動
古代メソポタミアの人々がどこから来たのか、シュメル人は宇宙人だったとか安っぽい説がウケたのもすでに昔、今や大昔の人骨からでもDNA引っこ抜いて分析できてしまう時代でございます。
シュメルが栄えたのはティグリス・ユーフラテス川の下流だが、農耕の技術が誕生したのはもっと上流の「肥沃な三日月地帯」。そこから川を下って人と技術が伝播した結果、シュメル文明が誕生する。
※ちなみに川の下流は雨が少なく、麦が自生しないため、農耕技術と作物が川の上流から伝わってきたことはほぼ確実と言える
今回は、その「農耕文明の起源地」付近、上メソポタミアのÇayönü遺跡で発掘された、紀元前8500年~7500年頃の人骨13体から得られたデータによって「上メソポタミアの人たちはどこから来たのか」を探る研究である。
A genomic snapshot of demographic and cultural dynamism in Upper Mesopotamia during the Neolithic Transition
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abo3609
途中に出てくるPPNAとかPPNBとかPNとかの単語は、時代区分の略称だ。
以前作った表を再掲しておく。
PPN → Pre pottery neolithic → 先土器 + 新石器時代
PPNにはA期~C期がある。
PN → Pottery neolithic → 土器 + 新石器時代
今回は、トルコのチャタル・ホユック遺跡とほぼ同時期のPPNBの期間の人骨を調べているようだ。
で、表のとおり、上メソポタミアは主に東西方向の人の移動があり、レヴァントやイランのザグロス山脈あたりとの遺伝的な親和性がある。また、時代によっては北のアナトリアとも交流はあったようだ。
単純に遺伝的な類似を統計学として分析しているだけだと浅いのだが、そこはさすが高級紙に載る論文だけあって、物質文化の類似性(遺物の形態や美術様式、風習など)も考慮して二段構えになっている。
(゛We therefore suggest an alternative scenario to explain the observed genetic structure. "
のあたりから後)
ただし今回の分析では13個体のみで1000年単位なので、この論文だけだと全体像は描けないなという感じ。そこは追加研究待ちになるか。
おそらく、だが、今回の結果だと、この地方からザグロスやアナトリアへ人が移動していて、それに伴い農耕文化も拡散しているのではないかと思う。農耕・牧畜を開始すると、面積単位での食料生産率が上がり人口が増えやすくなるため、増えたぶんの人口が移動していったのではないかとも推測できる。(今回の分析だと紀元前7000年頃)
下メソポタミアへの人の流入については言及されていないが、本格的な農耕開始が紀元前4000年くらいからなので、人の移動があったとすればそのあたりかもしれない。
******
あと、この論文だと、分析に使った骨の中で女児の頭蓋骨に焼灼の痕跡が見つかった、という記載があった。
これは患部に焼けた棒などを押し当てて治療する方法だが、知られている限り最古級の証拠になるそうだ。
シュメルが栄えたのはティグリス・ユーフラテス川の下流だが、農耕の技術が誕生したのはもっと上流の「肥沃な三日月地帯」。そこから川を下って人と技術が伝播した結果、シュメル文明が誕生する。
※ちなみに川の下流は雨が少なく、麦が自生しないため、農耕技術と作物が川の上流から伝わってきたことはほぼ確実と言える
今回は、その「農耕文明の起源地」付近、上メソポタミアのÇayönü遺跡で発掘された、紀元前8500年~7500年頃の人骨13体から得られたデータによって「上メソポタミアの人たちはどこから来たのか」を探る研究である。
A genomic snapshot of demographic and cultural dynamism in Upper Mesopotamia during the Neolithic Transition
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abo3609
途中に出てくるPPNAとかPPNBとかPNとかの単語は、時代区分の略称だ。
以前作った表を再掲しておく。
PPN → Pre pottery neolithic → 先土器 + 新石器時代
PPNにはA期~C期がある。
PN → Pottery neolithic → 土器 + 新石器時代
今回は、トルコのチャタル・ホユック遺跡とほぼ同時期のPPNBの期間の人骨を調べているようだ。
で、表のとおり、上メソポタミアは主に東西方向の人の移動があり、レヴァントやイランのザグロス山脈あたりとの遺伝的な親和性がある。また、時代によっては北のアナトリアとも交流はあったようだ。
単純に遺伝的な類似を統計学として分析しているだけだと浅いのだが、そこはさすが高級紙に載る論文だけあって、物質文化の類似性(遺物の形態や美術様式、風習など)も考慮して二段構えになっている。
(゛We therefore suggest an alternative scenario to explain the observed genetic structure. "
のあたりから後)
ただし今回の分析では13個体のみで1000年単位なので、この論文だけだと全体像は描けないなという感じ。そこは追加研究待ちになるか。
おそらく、だが、今回の結果だと、この地方からザグロスやアナトリアへ人が移動していて、それに伴い農耕文化も拡散しているのではないかと思う。農耕・牧畜を開始すると、面積単位での食料生産率が上がり人口が増えやすくなるため、増えたぶんの人口が移動していったのではないかとも推測できる。(今回の分析だと紀元前7000年頃)
下メソポタミアへの人の流入については言及されていないが、本格的な農耕開始が紀元前4000年くらいからなので、人の移動があったとすればそのあたりかもしれない。
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あと、この論文だと、分析に使った骨の中で女児の頭蓋骨に焼灼の痕跡が見つかった、という記載があった。
これは患部に焼けた棒などを押し当てて治療する方法だが、知られている限り最古級の証拠になるそうだ。