ツタンカーメンの在位9年は、他の王に比べて「短くはない」。墓が小さい理由はおそらく在位年の長さではない

ツタンカーメン王墓発掘から100周年ということで色々出版物があったり報道が出たりなのだが、一つ気になっていることがある。
この王の在位年を「わずか9年」とか「短い」と表現しているのを見かけることだ。

9年は全然短くない。

他の王たちの在位年を見てみれば、短い人はたくさんいる。
前後で近い時代だと以下のような感じになっていて、3-4年の人たちは墓や神殿が未完成のまま、次代の王が継続して作っている傾向があるものの、10年ある人はそこそこの規模の建造物を作っている。それに、ツタンカーメンほどみすぼらしい墓に収められていた人もいない。

トトメス2世  約3年
トトメス4世  約11年
スメンクカラー  約3年
アイ       約4年
ラメセス1世  1-2年
メルエンプタハ 約10年
アメンメセス  約3年
セティ2世 約5年

なので、ツタンカーメンの時代にほとんど実績がないこと、目立つ建造物などがないことは、治世が短かったからではなく、以下のような可能性が考えられる

①当該の王にその気が無かった、出来なかった(=無気力もしくは傀儡の王だった説)
②アマルナからの遷都に労力を使っていたため手が回らなかった
③西の谷に作られていて後にアイに使われる墓が本来の墓で、実際はその墓はほぼ完成していた

一般的に、王たちは即位すると同時に王墓の建造を開始する。なので、広く言われているように現在の墓は本来予定されていたものではなく、実際は、次に即位するアイに墓を奪われたのだとする③の説は大いに有り得ると思う。

しかし、だとしても、9年もの(繰り返すが決して短くはない)治世がありながら、人生の後半においても目立つ業績がないのはいささか寂しいと思う。18歳とか19歳は、古代世界では「少年」ではない。いっぱしの大人の年齢であり、戦場に出るならとうに初陣は済ませているはずで、本来なら自身の判断能力もある年齢である。

王家の血筋だったとすれば先代からのブレインもまだ生き残っているはずだし、少なくとも、彼のあとに即位する重臣のアイやホルエムヘブは健在だ。即位した時は子供でも、さすがに4-5年経って青年期に入れば自立した行動はとると思う。

なので、①の「その気が無かったか、出来なかった」という可能性が出てくる。
また、そもそもツタンカーメン王墓が発見された理由が、王家の谷でこの王の名前いりの遺物がいくつか見つかっていたことなので、②の「アマルナ王朝の尻拭いで忙しかった」という可能性もありえる。

②の場合、具体的には、アクエンアテンなどアマルナ周辺に葬られただろう「異端」王たちの遺体の改葬や王墓の移転、アテン信仰の残滓を消去することなどが該当するだろうか。しかしそれでも、自分の墓づくりをないがしろにするほど忙しかったとも思えない。
やはり、9年もあって、しかも墓の副葬品があれだけ豪華でありながら、業績が少なすぎるんじゃない? というのと、墓が小さすぎるよね。 っていうのが、どうしても引っかかるのである。


ここからは推測となるが、ツタンカーメンは、やはり実権をあまり握らせてもらえていない、傀儡に近い王だったのではないかと思うのだ。
王家の血縁とはいえ、アテン信仰の後始末をするためだけに即位させられていた人物で、実権は王妃ネフェルティティの一族や取り巻きに握られていたのではないかと。具体的に言えば王妃のほうが発言権があった可能性はあると思う。

だからこそ、ツタンカーメンの死後すぐに、王妃は「私には夫が居ないので、王子を一人よこしてください」とヒッタイトに手紙を送ることになった。彼女が欲しかったのは、自分の権威の添え物となる都合のいい夫であって、自分の代わりに王となる人物ではなかったからだ。ヘタに身近なところから夫を選ぶと権力を奪われてしまう、と恐れたのでもなければ、わざわざそんなことはしないだろう。

そして、本来の墓が未完成だったにせよ、みすぼらしい小さな墓に押し込められてしまったということは、彼の死後にその扱いに抗議してくれる権力者が残されていなかったことを意味している。


古代エジプトの世界観において、立派な墓に収められて死後も覚えられていることや、子孫に代々祀られることは、とても大事なことだった。王の座につきながら、ツタンカーメンにその栄誉は与えられなかった。彼の娘とされる二体のミイラとともに、狭い墓の中で三千年も忘却の中にあったのだ。
現代においては最も著名な王の一人だが、実際に生きた人生のことを思うと、ずいぶん寂しいものだなと思ってしまう。
アマルナ革命という時代の狭間で翻弄された生涯の最後で、彼は何か少しでも満足して逝くことは出来たのだろうか。