ビザンツVSアラブ 7世紀の覇権争いの行方と結果「生まれくる文明と対峙すること」

タイトルかっけぇなこれ…って何となく読み始めたら内容とタイトルが意外にもマッチしていてハイセンスなつけかたしていた。
7世紀の地中海世界で、新興勢力のアラブ勢とビザンツがどう向き合ったのかということ、「東ローマ」がいかにして「ビザンツ帝国」としてアイデンティティを確立していったのかということが書かれている。

生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像 (MINERVA西洋史ライブラリー 114) - 小林 功
生まれくる文明と対峙すること:7世紀地中海世界の新たな歴史像 (MINERVA西洋史ライブラリー 114) - 小林 功

本の構成はコンスタンス2世を中心に、その前後の時代の流れが書かれている。
コンスタンス2世に先立つヘラクレイオス帝の時代、アラブは国内の異端もしくは新興勢力という扱いで、辺境民族と同じく、なだめて帝国にとりこめばいいだろうという融和路線が取られていた。
その後、640年以降は武力衝突する強硬路線の時代へ。しかし勝てず逆に攻め込まれる苦しい時代が続き、エジプトはここで戦線から離脱。

この時代のローマはカルケドン公会議で宗教理念が分裂し、「カルケドン派」「非カルケドン派」に分かれてしまっていたが、非カルケドン派地域がまとめて帝国領域から切り離され、アラブ側に吸収されて、以後戻ってくることは無かった。

654年には初のアラブによるコンスタンティノープル攻撃となり、帝国は本気で戦わざるを得なくなる。しかしアラブ側もまた、帝国を簡単には滅ぼせないことを知る。
陸戦の民だったアラブ側は、コンスタンティノープル攻略のため初の艦隊を結成し、ビザンツ側は、アラブの猛攻を耐えきったことにより「神に守られし国」という自信を深める。

お互いに影響しあいながらアイデンティティを確立していく時代、それが7世紀という時代だった。
ビザンツを攻め滅ぼせなかったことで、アラブはローマの後継者にはなれなかった。
そしてビザンツ側も、非カルケドン派など周辺地域の「異端」がごっそり離脱したあとに残った中心地域で「皇帝を掲げるキリスト教国」という新たなアイデンティティを掲げられるようになる。

この時代は、地中海世界の構成が大きく書き換わったターニングポイントだったのだ。


面白かったのが、ビザンツ側は最初、アラブ側が何者か分かっていなかったということ。同じ一神教を信奉していることもあり、また地域柄、初期のアラブ勢力にキリスト教徒やユダヤ教徒も組み込まれていたことから、キリスト教の中の「異端」と認識していたらしい。
言われてみると確かに、教義としては似てるところもある。今でこそキリスト教とイスラム教は全く別のものと切り離されているが、初期のイスラム教はまだそこまでアイデンティティが確立されていなかったし、内容が詳しく知られているわけでもなかった。
これも、7世紀の戦いを通じて「別もの」になっていったと考えられる。

のちの歴史を知る者にはわかりきっている話だが、コンスタンチノープル陥落は1453年。ここからまだ700年ある。
この本を読んだあと、ビザンツ帝国の歴史についておさらいしてみると、流れが分かってさらに面白いと思う。

オススメはこのへん

ビザンツ 文明の継承と変容―諸文明の起源〈8〉 (学術選書) - 浩一, 井上
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