フン族の民族大移動には平原の干ばつが関係していたか? 疑問はあるが一説としてはアリかも
フン族は、4世紀なかば以降にヨーロッパに侵入し、ローマ帝国領内を荒らし回った騎馬民族である。
馬を操り、その機動力を生かして各地に壊滅的な被害をもたらした。ローマ側では、神がもたらした罰だという思想から、フン族の王アッティラを「神の鞭」と読んだりもしたが、キリスト教なにそれおいしいの状態のフン族側からしたら、いい迷惑だったたろう。
この騎馬民族については、突如現れた(記録上はそうなっている)ために分かっていることが少なく、おそらく中央アジア出身じゃないか、くらいに言われている。アッティラという名前すら「オヤジ」くらいの意味合いで、ヤクザのおやっさんに対する呼びかけ。つまりは本名ではない。
歴史的に匈奴起源説が出されることが多いが、少々こじつけ臭いきらいがあり、考古学資料の整理された現在では支持している学者はそう多くはない。
つまり、今でも「よく分からんけど突然ローマに侵入してきて荒らし回るだけ荒らし回って滅びた蛮族」みたいな扱いになっている。
それ彼らがローマ領内に侵入してくることになった切っ掛けは、中央アジアで起きた干ばつではないか、という説が出ていた。
これは木の年輪などから昔の気候を復元する手法を使った、ある意味で現代的な研究になっている。
★元論文
The role of drought during the Hunnic incursions into central-east Europe in the 4th and 5th c. CE
https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-roman-archaeology/article/role-of-drought-during-the-hunnic-incursions-into-centraleast-europe-in-the-4th-and-5th-c-ce/C036810C421F7D04C2F6985E6B548F20

この説では、430年代から450年代にかけての深刻な干ばつがフン族の暮らしていた地域と、ローマ辺境地域の双方に影響をもたらし、当初はそれほど険悪ではなかったはずの両者の関係を変化させたのだとしている。(※フン族がハンガリー周辺に定住しはじめたのが370年頃なので、しばらくは全面的な敵対はしていなかった。)
ただ、この研究を見た時、「食うに困ったのは分かるけど、なんでわざわざローマ襲うの??」っていうのがよくわからなかった。
フン族は騎馬民族で馬だいじなので、馬に食わせる草が無くなったなら移動しなければならないのはまぁ分かる。だが、敢えてローマという、当事の西ヨーロッパで最も強大な――かつてより弱体化はしていたにせよ――に正面から挑むのかが理解できないのだ。ていうか都市部に牧草はない。
何よりも馬を優先するはずの騎馬民族の行動原理からは外れている。
なので、もしこの説を採用する場合には、最低でも以下二点の条件は必要になると思う。
●フン族は定住生活中にローマの都市市民的な考え方を取り入れていた
●弱体化中のローマから搾り取れるだけ搾り取ろうと欲を出した
でなければ、ローマに攻め入った理由が分からない。干ばつの起きていない黒海東岸あたりに退くほうがまだ現実味がある。たとえそのへんに敵対部族がいたとしても、ローマ帝国の都市部よりは手薄なはずなのだ。敢えていちばん強いやつに挑みに行く動機づけにしては足りないなという感じ。
それと、この研究によると厳しい干ばつは繰り返し起きていたとされる。
この干ばつのたびに民族大移動が起きてたかっていうとそうでもない。また、そもそもアッティラの生きてた時代の干ばつって他の時代に比べるとそれほどでもないような…っていうのが気になる。

以前読んだ現代のモンゴルの遊牧民の本では、数年くらいの干ばつなら近所で放牧地を変えるだけで耐えていた。よく知ったお気に入りの放牧地は離れたくないのだ。
10年続くようだとどうしようもないので大きく移動する。
この図だと、長く干ばつが続いて追いつめられるくらいになってたかどうかは微妙だなぁという感じ。
そもそも、干ばつが最大になる時期は、馬も草が食べられなくて体力が落ちているし、ヘタしたら飢えて死んで数も減っているので、騎馬民族は攻勢に出られない。戦争に出かけるなら最も馬の肥えている強い時期にするはずだ。研究者、ちょっと定住民の発想で研究しすぎじゃないかな…。
というわけで、ここで論じられている説自体は疑問が残るのだが、歴史的に干ばつや気候変動が大規模な民族移動を引き起こしてきたというところまでは”アリ”だと思う。ヒッタイトやエジプトに攻め込んだ「海の民」の暴動の切っ掛けも、東地中海世界の気候変動が原因ではないかと言われている。
ただし「海の民」を構成していた諸民族は、もともとエジプトで傭兵として雇われることもあった顔見知りのご近所さんたちであり、農耕で生きている定住民がほとんどだった。つまりは干ばつで畑の作物がとれないと、餓死回避のために近隣の豊かな土地を襲うしかなかった。そこが、食料源となる家畜を引き連れて移住できる遊牧民との違いである。
馬を操り、その機動力を生かして各地に壊滅的な被害をもたらした。ローマ側では、神がもたらした罰だという思想から、フン族の王アッティラを「神の鞭」と読んだりもしたが、キリスト教なにそれおいしいの状態のフン族側からしたら、いい迷惑だったたろう。
この騎馬民族については、突如現れた(記録上はそうなっている)ために分かっていることが少なく、おそらく中央アジア出身じゃないか、くらいに言われている。アッティラという名前すら「オヤジ」くらいの意味合いで、ヤクザのおやっさんに対する呼びかけ。つまりは本名ではない。
歴史的に匈奴起源説が出されることが多いが、少々こじつけ臭いきらいがあり、考古学資料の整理された現在では支持している学者はそう多くはない。
つまり、今でも「よく分からんけど突然ローマに侵入してきて荒らし回るだけ荒らし回って滅びた蛮族」みたいな扱いになっている。
それ彼らがローマ領内に侵入してくることになった切っ掛けは、中央アジアで起きた干ばつではないか、という説が出ていた。
これは木の年輪などから昔の気候を復元する手法を使った、ある意味で現代的な研究になっている。
★元論文
The role of drought during the Hunnic incursions into central-east Europe in the 4th and 5th c. CE
https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-roman-archaeology/article/role-of-drought-during-the-hunnic-incursions-into-centraleast-europe-in-the-4th-and-5th-c-ce/C036810C421F7D04C2F6985E6B548F20

この説では、430年代から450年代にかけての深刻な干ばつがフン族の暮らしていた地域と、ローマ辺境地域の双方に影響をもたらし、当初はそれほど険悪ではなかったはずの両者の関係を変化させたのだとしている。(※フン族がハンガリー周辺に定住しはじめたのが370年頃なので、しばらくは全面的な敵対はしていなかった。)
ただ、この研究を見た時、「食うに困ったのは分かるけど、なんでわざわざローマ襲うの??」っていうのがよくわからなかった。
フン族は騎馬民族で馬だいじなので、馬に食わせる草が無くなったなら移動しなければならないのはまぁ分かる。だが、敢えてローマという、当事の西ヨーロッパで最も強大な――かつてより弱体化はしていたにせよ――に正面から挑むのかが理解できないのだ。ていうか都市部に牧草はない。
何よりも馬を優先するはずの騎馬民族の行動原理からは外れている。
なので、もしこの説を採用する場合には、最低でも以下二点の条件は必要になると思う。
●フン族は定住生活中にローマの都市市民的な考え方を取り入れていた
●弱体化中のローマから搾り取れるだけ搾り取ろうと欲を出した
でなければ、ローマに攻め入った理由が分からない。干ばつの起きていない黒海東岸あたりに退くほうがまだ現実味がある。たとえそのへんに敵対部族がいたとしても、ローマ帝国の都市部よりは手薄なはずなのだ。敢えていちばん強いやつに挑みに行く動機づけにしては足りないなという感じ。
それと、この研究によると厳しい干ばつは繰り返し起きていたとされる。
この干ばつのたびに民族大移動が起きてたかっていうとそうでもない。また、そもそもアッティラの生きてた時代の干ばつって他の時代に比べるとそれほどでもないような…っていうのが気になる。

以前読んだ現代のモンゴルの遊牧民の本では、数年くらいの干ばつなら近所で放牧地を変えるだけで耐えていた。よく知ったお気に入りの放牧地は離れたくないのだ。
10年続くようだとどうしようもないので大きく移動する。
この図だと、長く干ばつが続いて追いつめられるくらいになってたかどうかは微妙だなぁという感じ。
そもそも、干ばつが最大になる時期は、馬も草が食べられなくて体力が落ちているし、ヘタしたら飢えて死んで数も減っているので、騎馬民族は攻勢に出られない。戦争に出かけるなら最も馬の肥えている強い時期にするはずだ。研究者、ちょっと定住民の発想で研究しすぎじゃないかな…。
というわけで、ここで論じられている説自体は疑問が残るのだが、歴史的に干ばつや気候変動が大規模な民族移動を引き起こしてきたというところまでは”アリ”だと思う。ヒッタイトやエジプトに攻め込んだ「海の民」の暴動の切っ掛けも、東地中海世界の気候変動が原因ではないかと言われている。
ただし「海の民」を構成していた諸民族は、もともとエジプトで傭兵として雇われることもあった顔見知りのご近所さんたちであり、農耕で生きている定住民がほとんどだった。つまりは干ばつで畑の作物がとれないと、餓死回避のために近隣の豊かな土地を襲うしかなかった。そこが、食料源となる家畜を引き連れて移住できる遊牧民との違いである。