ネフェルティティの胸像とともに発見された遺物、知られざる習作の「顔」たち
有名なネフェルティティの胸像は、ドイツのベルリンにある。
1907年にはじめてドイツ・オリエント教会がアマルナに発掘隊を送り込み、1912年に彫像コレクションを発見した。そのうちの一体、最も美しいものがネフェルティティの胸像であった。
発掘指揮官は、英語読みで言うとルートヴィヒ・ボルヒャルト(Ludwig Borehardt)。ちなみに像の発見当時の写真がこれである。
資料リンク
泥まみれの生首は、なかなかにアレがアレで「ちょっとグロ…」って感じなのだが、これがかの有名なネフェルティティが三千年の時を経て再び目覚めた直後の姿なのだ。
だが、気になっていたのはそれ以外の品はあまり知られていないのだが、実は他にも習作と思われる胸像が多数見つかっている。
一部は実際にベルリンで見ることが出来たのだが、全部で二十ほど見つかってるらしいので数が全然足りなかった。他のはどうなだったんだ…? と調べてみたら、意外なことが分かった。
誰か分からない一般人(もしくは王族の誰か?)の練習作品が一杯あったのだ。
★ちなみにこれがベルリンで見られる一部
↑ネフェルティティの胸像の習作とされるもの
↑アメンヘテプ3世ではないかとされる像
★それ意外の発掘品のカタログはこちら
めちゃめちゃ
リアル志向。
これらは柔らかいGypsum plaster(要は石膏)で作られたもので、本番の岩を削る前に造形を確認したものだろうとされる。
リアルすぎて当時生きていた人の様々な顔に見つめられているような不思議な気分になってくる。決められた形式に従って作られていることが多いエジプト美術の中では少し異質。これらは私人墓に置かれる像の予定だったかもしれないというが、アマルナ時代は短期間で終わり、アマルナ周辺の墓は王のものも含めいずれも未完成のため、時間のかかる本番用の像のほうは、結局、作られなかったのかもしれない。
当事の芸術家たちのレベルの高さを思わせる。
ネフェルティティの像は、彫刻師トトメスの工房から見つかった。
その工房には弟子たちの住まいもあり、近辺には同様の職人たちが集まっていたらしい。同じ区画からは、作りかけの像や道具が色々出てきている。
たとえば、石を削る際にアタリ線を描いたままのもの。これは、神に供物を捧げる王の像になったはずのものだ。
青銅製のピンやヘラは、掘る場所に応じて使い分けられたのだと思われる。
細かなヒエログリフのエッジも、これで地道にコリコリやっていたのだ。集中力と根気の必要な、大変な作業だっただろう。
他にもファイアンスを量産するための型、貴石を首飾りにするための穴あけ道具など、実は色んなものが一緒に出土していたのだ。
職人たちの暮らしていた区画の、彼らの暮らしぶりが見えてくるようだった。
というか、考えてみれば、ネフェルティティの胸像は「彫刻師の工房」で見つかったと言われているのだから、そこが工房だったことが分かるものと一緒に出て来ないとそうだとは言われない。これだけ物証があれば、確かに工房だったんだなと分かる。
アマルナ時代の終焉とともに、都は放棄され人はみな去ってしまう。
果たして、この工房で像を彫っていた人たちは、そして習作のモデルになった名も知らぬ「顔」の主たちは、一体どうなってしまったのだろうか。
彼らの運命が、その後の激動の時代の中で過酷ではなかったことを願うばかりだ。
1907年にはじめてドイツ・オリエント教会がアマルナに発掘隊を送り込み、1912年に彫像コレクションを発見した。そのうちの一体、最も美しいものがネフェルティティの胸像であった。
発掘指揮官は、英語読みで言うとルートヴィヒ・ボルヒャルト(Ludwig Borehardt)。ちなみに像の発見当時の写真がこれである。
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泥まみれの生首は、なかなかにアレがアレで「ちょっとグロ…」って感じなのだが、これがかの有名なネフェルティティが三千年の時を経て再び目覚めた直後の姿なのだ。
だが、気になっていたのはそれ以外の品はあまり知られていないのだが、実は他にも習作と思われる胸像が多数見つかっている。
一部は実際にベルリンで見ることが出来たのだが、全部で二十ほど見つかってるらしいので数が全然足りなかった。他のはどうなだったんだ…? と調べてみたら、意外なことが分かった。
誰か分からない一般人(もしくは王族の誰か?)の練習作品が一杯あったのだ。
★ちなみにこれがベルリンで見られる一部
↑ネフェルティティの胸像の習作とされるもの
↑アメンヘテプ3世ではないかとされる像
★それ意外の発掘品のカタログはこちら
めちゃめちゃ
リアル志向。
これらは柔らかいGypsum plaster(要は石膏)で作られたもので、本番の岩を削る前に造形を確認したものだろうとされる。
リアルすぎて当時生きていた人の様々な顔に見つめられているような不思議な気分になってくる。決められた形式に従って作られていることが多いエジプト美術の中では少し異質。これらは私人墓に置かれる像の予定だったかもしれないというが、アマルナ時代は短期間で終わり、アマルナ周辺の墓は王のものも含めいずれも未完成のため、時間のかかる本番用の像のほうは、結局、作られなかったのかもしれない。
当事の芸術家たちのレベルの高さを思わせる。
ネフェルティティの像は、彫刻師トトメスの工房から見つかった。
その工房には弟子たちの住まいもあり、近辺には同様の職人たちが集まっていたらしい。同じ区画からは、作りかけの像や道具が色々出てきている。
たとえば、石を削る際にアタリ線を描いたままのもの。これは、神に供物を捧げる王の像になったはずのものだ。
青銅製のピンやヘラは、掘る場所に応じて使い分けられたのだと思われる。
細かなヒエログリフのエッジも、これで地道にコリコリやっていたのだ。集中力と根気の必要な、大変な作業だっただろう。
他にもファイアンスを量産するための型、貴石を首飾りにするための穴あけ道具など、実は色んなものが一緒に出土していたのだ。
職人たちの暮らしていた区画の、彼らの暮らしぶりが見えてくるようだった。
というか、考えてみれば、ネフェルティティの胸像は「彫刻師の工房」で見つかったと言われているのだから、そこが工房だったことが分かるものと一緒に出て来ないとそうだとは言われない。これだけ物証があれば、確かに工房だったんだなと分かる。
アマルナ時代の終焉とともに、都は放棄され人はみな去ってしまう。
果たして、この工房で像を彫っていた人たちは、そして習作のモデルになった名も知らぬ「顔」の主たちは、一体どうなってしまったのだろうか。
彼らの運命が、その後の激動の時代の中で過酷ではなかったことを願うばかりだ。