あまり知られていない南アフリカの歴史と遺跡「グレートジンバブウェ」
時代によって、見方が変わっていく遺跡というものがある。特に、政治に利用されてしまった遺跡ではそれが顕著に現れる。
というわけで、ふとグレートジンバブエ遺跡のことを思い出して本を呼んでみた。この遺跡はその名の通り、現在のジンバブエにある石積みの遺跡である。
かつてジンバブエがイギリス人によって統治される「ローデシア」という国だった時代に発掘もどきの調査でめちゃくちゃにされ、「アフリカ人にこんな立派な遺跡作れるわけない」という理由、そして政治的にも「黒人は劣っている」ということにしたかったために、公的にそのような見方が発信され続けてきた歴史を持つ、不遇の遺跡でもある。
グレートジンバブウェ (講談社現代新書) - 吉國恒雄
日本での知名度は現在ではそれほど低くはないように思えるが、知られているのは形状と名前だけで、その前後の南アフリカ史というものまで把握している人はほとんどいないように思われる。自分も触りしか知らなかったので、この本で通史としての流れを知って、色々「へえ」となった。
そもそも、この遺跡は「アフリカの他の地域にはない」とか「地域に突然現れる石積みの王国」とかではなかった。
かなりざっくりした流れになるが、前段に金資源の採掘を財源にした王国の発展があり、住み着いた場所が木材より石材のほうが豊富だったので石積みを作るようになりグレートジンバブエが登場し、石積みが洗練されてトルワなど後継の王国へと続いていく。
トルワ王国など知名度はほとんど無きに等しい名前だと思うが、石積みはグレートジンバブエの時代から洗練されて、垢抜けた雰囲気だ。
Great Zimbabwe National Monument
https://whc.unesco.org/en/list/364
こちらがグレートジンバブエ。石壁はただきれいに積んであるだけの平らなもの。
Khami Ruins National Monument
https://whc.unesco.org/en/list/365/
こちらが後継王国のひとつトルワのカミ遺跡。石積みに装飾が凝らされている。
つまりはジンバブエ遺跡は、南アフリカ世界で特異なものでも、徒花でもなかった。
その時代、その土地の条件に合致して誕生し、発展した土着文化の一部だったのである。
ただ、この文化は現代には残っていない。理由としてはヨーロッパが悪さをしたというよりも、地域の財源だった金鉱の枯渇が大きい。これは全盛期にはエジプトを凌ぐ数のピラミッドさえ築いていたヌビアの王国が、金鉱の枯渇によって衰退していったのと似ていると思う。
その後、現地の人たちも遺跡の来歴などを忘れてしまったのが不幸の始まりというべきか。
白人優生主義のもとで長らくアフリカ土着民の遺跡と認められず、1980年代まで来歴などは有耶無耶にされ続けてきたことは考古学者にも責任があるだろう。まあそのへんの経緯については、詳しくは自分で読んでくださいという感じなのだが、
なお、アフリカの他の地域でも石の宮殿(らしきもの)は存在する。
以前訪れたエチオピアのドゥングル宮殿なんかも、その一つだ。――ただしこちらも、現地民が作ったのか、アラブ人など外来者が手を貸したのかが有耶無耶にされている。
通称「シバの女王の宮殿跡」ことドゥングル(dungur)宮殿に行ってきた
https://55096962.seesaa.net/article/201905article_8.html
あと似たような石積みの宮殿が西アフリカのニジェール川流域にも存在する。
ニジェール川流域の未発掘ジャンルから。「西アフリカの王国を掘る」
https://55096962.seesaa.net/article/201906article_16.html
このへんの石積みの遺跡どれもあまり研究が進んでいなくて、資料がなかなか出てこないのが残念。日本人の研究者の本でも「研究する人があんまりいないんだよね」みたいな論調だし…。
ただ、これらを見る限り、石で建物を作る文化は、アフリカに古くからあったものだと思うんだ。それがどう発展するかは地域によって違うだけで。
というわけで、ふとグレートジンバブエ遺跡のことを思い出して本を呼んでみた。この遺跡はその名の通り、現在のジンバブエにある石積みの遺跡である。
かつてジンバブエがイギリス人によって統治される「ローデシア」という国だった時代に発掘もどきの調査でめちゃくちゃにされ、「アフリカ人にこんな立派な遺跡作れるわけない」という理由、そして政治的にも「黒人は劣っている」ということにしたかったために、公的にそのような見方が発信され続けてきた歴史を持つ、不遇の遺跡でもある。
グレートジンバブウェ (講談社現代新書) - 吉國恒雄
日本での知名度は現在ではそれほど低くはないように思えるが、知られているのは形状と名前だけで、その前後の南アフリカ史というものまで把握している人はほとんどいないように思われる。自分も触りしか知らなかったので、この本で通史としての流れを知って、色々「へえ」となった。
そもそも、この遺跡は「アフリカの他の地域にはない」とか「地域に突然現れる石積みの王国」とかではなかった。
かなりざっくりした流れになるが、前段に金資源の採掘を財源にした王国の発展があり、住み着いた場所が木材より石材のほうが豊富だったので石積みを作るようになりグレートジンバブエが登場し、石積みが洗練されてトルワなど後継の王国へと続いていく。
トルワ王国など知名度はほとんど無きに等しい名前だと思うが、石積みはグレートジンバブエの時代から洗練されて、垢抜けた雰囲気だ。
Great Zimbabwe National Monument
https://whc.unesco.org/en/list/364
こちらがグレートジンバブエ。石壁はただきれいに積んであるだけの平らなもの。
Khami Ruins National Monument
https://whc.unesco.org/en/list/365/
こちらが後継王国のひとつトルワのカミ遺跡。石積みに装飾が凝らされている。
つまりはジンバブエ遺跡は、南アフリカ世界で特異なものでも、徒花でもなかった。
その時代、その土地の条件に合致して誕生し、発展した土着文化の一部だったのである。
ただ、この文化は現代には残っていない。理由としてはヨーロッパが悪さをしたというよりも、地域の財源だった金鉱の枯渇が大きい。これは全盛期にはエジプトを凌ぐ数のピラミッドさえ築いていたヌビアの王国が、金鉱の枯渇によって衰退していったのと似ていると思う。
その後、現地の人たちも遺跡の来歴などを忘れてしまったのが不幸の始まりというべきか。
白人優生主義のもとで長らくアフリカ土着民の遺跡と認められず、1980年代まで来歴などは有耶無耶にされ続けてきたことは考古学者にも責任があるだろう。まあそのへんの経緯については、詳しくは自分で読んでくださいという感じなのだが、
なお、アフリカの他の地域でも石の宮殿(らしきもの)は存在する。
以前訪れたエチオピアのドゥングル宮殿なんかも、その一つだ。――ただしこちらも、現地民が作ったのか、アラブ人など外来者が手を貸したのかが有耶無耶にされている。
通称「シバの女王の宮殿跡」ことドゥングル(dungur)宮殿に行ってきた
https://55096962.seesaa.net/article/201905article_8.html
あと似たような石積みの宮殿が西アフリカのニジェール川流域にも存在する。
ニジェール川流域の未発掘ジャンルから。「西アフリカの王国を掘る」
https://55096962.seesaa.net/article/201906article_16.html
このへんの石積みの遺跡どれもあまり研究が進んでいなくて、資料がなかなか出てこないのが残念。日本人の研究者の本でも「研究する人があんまりいないんだよね」みたいな論調だし…。
ただ、これらを見る限り、石で建物を作る文化は、アフリカに古くからあったものだと思うんだ。それがどう発展するかは地域によって違うだけで。