ロゼッタ・ストーン以外の「二か国語石碑」の一覧を作っておいた

古代エジプト語解読の端緒となったロゼッタ・ストーンは有名だが、その後いくつか発見されている同様の石碑の情報が日本語で出てこなかったので、自分用に作っておくことにした。

まず前提として、ロゼッタ・ストーンは、それが作られた時代においては特殊なものではない。
プトレマイオス朝には、同様のギリシャ語とエジプト語の碑文がたくさん作られていた。なぜならプトレマイオス朝の支配者は母語がギリシャ語の外国人で、ギリシャ人の入植者は少数派。残り大半は土着のエジプト人なので、「王の寛大さ」を宣伝したり、権威をアピールしたりして土着民に王権を浸透させる必要がある。

ロゼッタ・ストーンの内容が恩赦を含む法令なのは、それをエジプト人にもギリシャ人にも、広く宣伝する必要があったためである。
そしてヒエログリフが一番上でギリシャ語が一番下なのも、土着民を立てるという意味や、人数の多いエジプト人に主にアピールしていきたいという意図の現れと思われる。(碑文の建てられた場所自体も、神殿の入り口などエジプト人に見えやすい場所だったようだ)

年代順に並べると、以下のようになる。

アレキサンドリア法令(The Decree of Alexandria)
紀元前243年 プトレマイオス3世

カノポス法令(The Decree of Canopus)
紀元前238年 プトレマイオス3世

メンフィス法令(The Memphis decree)
紀元前218年 プトレマイオス4世

第三メンフィス法令(The third Memphis decree)
紀元前196年 プトレマイオス5世 ※ロゼッタ・ストーンはこれ

カノポス法令のカイロ博物館にあるものはほぼ完全な形状であり、ロゼッタ・ストーンよりもヒエログリフ部分の残りがいい。

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プトレマイオス朝の全盛期から、やや落ち目になるあたりの王様ばかりである。これ以降は、同様の碑文は作られていないか、単に残っていない。もし作られなくなったのだとすれば、5世までの間に統治の下地固めが終わったので作る必要が無くなったか、王朝が衰退期に入って気前のいい特赦などが出来なくなっていたのかもしれない。

いずれにしても、二か国語の石碑は実は幾つもあるのだということ。
そして、最初に見つかったロゼッタ・ストーンで発見された解読方法は、二番目に見つかったカノポス法令以降の石碑で正しさを証明されていくことになるのだった。