ヨルダン周遊(5) 裏ペトラ・トレッキングルートと人の集まる理由
というわけで世界遺産のペトラへやって来た。かつてのナバタイ人(ナバテア人)の都である。
入場料がバカ高いことで有名な遺跡であり、基本的にやってくるのはOKANEMOCHIばかり。…なので敬遠していたのだが、年々値上がりしていくので今行っとかないともう無理では?? 的な感じもあり、今回、気合を入れて日程に組み込んだ。
ここは岸壁を削って作った神殿や建物などが有名だ。↓こういう写真を見たことがある人は多いと思う。
…まあでも、こんな当たり前のとこだけ見て回るなら、最初から個人で来たりはしない(笑)
個人旅で来たのは、「ナバタイ人はなぜここに都を作ったのか」「遊牧民とされるナバタイ人が都を設定しなければならなかった理由は何か」といった疑問に答えを出すためである。
現地行ってあるきまわってみれば何か気がつくだろ、という、いつもの脳筋的発想だ。
実際、歩いてみると、答えはすぐに見つかった。
周辺が、水場も無いほぼ日陰のない丘陵地帯に囲まれていたんである。ということは、ここを通過する旅人はみんな、一休みするための岩場+水場がある場所に集まるよね。わかりやすい集合場所として、ちょうどいい位置づけなのだ。そらここ選ぶわ。
で、ペトラ遺跡は王墓や神殿などが中心の遺跡で、庶民が暮らしていたのはリトル・ペトラと呼ばれる近くの遺跡のほうだとされている。リトル・ペトラのほうは、いわば隊商宿でもあったという。
地図だけ見ると、この2つの遺跡が妙に離れているように見えて、なんでこんなに離れているのか謎に思えた。
これも実際に行ってみると理由が分かった。
2つの遺跡が離れているように見えるのは、現代の道路事情による。道路が遠回りしてるだけで、徒歩(昔はラクダ)で行く道はそんなに遠くない。アップダウンはあるものの、2-3kmといったところ。そしてリトル・ペトラからペトラ本体への道中にも、実は、名もなき遺跡…岩を掘って作られた「家」か「宿場」のような跡が点在しているのだ。
一般的な観光エリアとしてのリトル・ペトラは、こんな感じで両脇に切り立った崖に穴が掘られてて、そこが神殿だったり家になってたりする遺跡。地元民が勝手に出している土産物屋は、エジプトほど客引きがうるさくないのが良い。逆に言うとやる気がないというか、昼間暑いから後ろの遺跡の中で昼寝してたりする。ええんかいw とちょっと思ったり。
このエリアを一番奥まで行くと、急階段がある。
実はこの先に、ペトラ本体に繋がる道がある。
階段の先の見晴らしのいい高台からは、再び急な崖になっていて、この岩の隙間みたいなところから降りられる。
降りた先にはトレッキングルートが続いている。
道の両脇に石を並べて整備してあり、とても歩きやすい道である。
春は花も咲いている。ハイキング好きには楽しい道だと思う。ちなみに水などは、途中にあるキャンプ場や小さな村でも買える。放牧している地元の人が結構通りかかるので、人目のない辺鄙な場所というわけでもない。
ここは2-3時間かけてペトラまで歩くコースだそうだが、早い人なら1時間あればいけると思う。
途中の岩山や道沿いには、こういう感じで名もなき遺跡がポソっと立っている。長年に渡り現地民が雨宿りしたり家畜小屋に使ったりしているため中身は空っぽで、焚き火の跡などが残っていたりもするのだが、かつては一つひとつに謂れや目的があったはず…なのだ。
まあ考えてみれば当たり前なのだが、現代の「リトル・ペトラ」なり「ペトラ」なりは現代人が設定した観光目的の範囲であって、古代の人々が残した遺構は、別にその範囲に収まっている必要はない。実際には、この周辺エリア全般がナバタイ人の活動範囲であり、遺跡は広い範囲に点在しているのだった。
で、このトレッキングルートを普通に辿っていくと、ペトラの奥のレストランがある辺りに出る。途中でそれて山の方のトレッキングルートに行くと、ペトラ本体のいちばん奥、山の上にある「エド・ディル」または「修道院」ことMonasteryまで山の裏側から登れる道もある。
ここは最近整備されたらしくガイドブックなどには載っていないが、見晴らしは素晴らしい。
これは登りきったあたりの風景。
隣のイスラエルの沙漠がよく見える。だが、その先にあるはずの地中海は見えない。
周りが沙漠の丘陵地帯だということがよく分かる。日陰と水場、もしくは貯水槽を備えた場所、というのが、いかに人を引き付けたかというのが実感できる。
なお、この周辺はこんな感じで岩山だらけになっている。平らな部分は谷底にしか無い。
有名な宝物殿やローマ劇場などを辿る観光用のメインルート一本以外はすべて健脚向けのコースとなっている。トレッキングルートではない、地元民が使ってる道も多数あるため、自信がない場合はガイドを雇ったほうがいいと思う。
ビジターセンター横にガイド紹介場があるし、現地の旅行会社に頼んでもいい。
で、「そもそも、こんな山の上に遺跡とかどうやって作ったん」という部分なのだが、これは現地の人たちのロバの使い方を見てたら「あーなるほど…」と思った。よく、山で水や食料を山小屋まで運び上げている歩荷(ぼっか)さんに出会うのだが、ここでは人間ではなくロバが歩荷していたのだ。
ラクダは砂地には強いが斜面が得意なわけではない。それに身体が大きい分、山道には向かない。
小柄なロバなら狭い山道を登るのに適している。重たい荷物を担いだまま、実にうまいこと急斜面を越えていくのである。
この方法が使えるなら、高い山の上で工事している間も、働いている人たちの水食料などは補給出来たはず。
山の麓に集会所や集落を作り、大事な神殿や墓などは山の上…というのも人間心理としては普通だろう。この「エド・ディル」は元はおそらく墓所で、手前の広場は儀式用だったとされている。そしてのちに教会に転用されたことから「修道院」という名前になっている。いずれにせよ、特別な施設として人を集めるために作られたもので、そのためには人が必要なものを下から運び上げる必要があった。
こうした大事な儀式的建造物を機能させることは、さらに人を集めて大きな都市になっていくための前提として必須条件でもあった。
まとめ読みはこちら
入場料がバカ高いことで有名な遺跡であり、基本的にやってくるのはOKANEMOCHIばかり。…なので敬遠していたのだが、年々値上がりしていくので今行っとかないともう無理では?? 的な感じもあり、今回、気合を入れて日程に組み込んだ。
ここは岸壁を削って作った神殿や建物などが有名だ。↓こういう写真を見たことがある人は多いと思う。
…まあでも、こんな当たり前のとこだけ見て回るなら、最初から個人で来たりはしない(笑)
個人旅で来たのは、「ナバタイ人はなぜここに都を作ったのか」「遊牧民とされるナバタイ人が都を設定しなければならなかった理由は何か」といった疑問に答えを出すためである。
現地行ってあるきまわってみれば何か気がつくだろ、という、いつもの脳筋的発想だ。
実際、歩いてみると、答えはすぐに見つかった。
周辺が、水場も無いほぼ日陰のない丘陵地帯に囲まれていたんである。ということは、ここを通過する旅人はみんな、一休みするための岩場+水場がある場所に集まるよね。わかりやすい集合場所として、ちょうどいい位置づけなのだ。そらここ選ぶわ。
で、ペトラ遺跡は王墓や神殿などが中心の遺跡で、庶民が暮らしていたのはリトル・ペトラと呼ばれる近くの遺跡のほうだとされている。リトル・ペトラのほうは、いわば隊商宿でもあったという。
地図だけ見ると、この2つの遺跡が妙に離れているように見えて、なんでこんなに離れているのか謎に思えた。
これも実際に行ってみると理由が分かった。
2つの遺跡が離れているように見えるのは、現代の道路事情による。道路が遠回りしてるだけで、徒歩(昔はラクダ)で行く道はそんなに遠くない。アップダウンはあるものの、2-3kmといったところ。そしてリトル・ペトラからペトラ本体への道中にも、実は、名もなき遺跡…岩を掘って作られた「家」か「宿場」のような跡が点在しているのだ。
一般的な観光エリアとしてのリトル・ペトラは、こんな感じで両脇に切り立った崖に穴が掘られてて、そこが神殿だったり家になってたりする遺跡。地元民が勝手に出している土産物屋は、エジプトほど客引きがうるさくないのが良い。逆に言うとやる気がないというか、昼間暑いから後ろの遺跡の中で昼寝してたりする。ええんかいw とちょっと思ったり。
このエリアを一番奥まで行くと、急階段がある。
実はこの先に、ペトラ本体に繋がる道がある。
階段の先の見晴らしのいい高台からは、再び急な崖になっていて、この岩の隙間みたいなところから降りられる。
降りた先にはトレッキングルートが続いている。
道の両脇に石を並べて整備してあり、とても歩きやすい道である。
春は花も咲いている。ハイキング好きには楽しい道だと思う。ちなみに水などは、途中にあるキャンプ場や小さな村でも買える。放牧している地元の人が結構通りかかるので、人目のない辺鄙な場所というわけでもない。
ここは2-3時間かけてペトラまで歩くコースだそうだが、早い人なら1時間あればいけると思う。
途中の岩山や道沿いには、こういう感じで名もなき遺跡がポソっと立っている。長年に渡り現地民が雨宿りしたり家畜小屋に使ったりしているため中身は空っぽで、焚き火の跡などが残っていたりもするのだが、かつては一つひとつに謂れや目的があったはず…なのだ。
まあ考えてみれば当たり前なのだが、現代の「リトル・ペトラ」なり「ペトラ」なりは現代人が設定した観光目的の範囲であって、古代の人々が残した遺構は、別にその範囲に収まっている必要はない。実際には、この周辺エリア全般がナバタイ人の活動範囲であり、遺跡は広い範囲に点在しているのだった。
で、このトレッキングルートを普通に辿っていくと、ペトラの奥のレストランがある辺りに出る。途中でそれて山の方のトレッキングルートに行くと、ペトラ本体のいちばん奥、山の上にある「エド・ディル」または「修道院」ことMonasteryまで山の裏側から登れる道もある。
ここは最近整備されたらしくガイドブックなどには載っていないが、見晴らしは素晴らしい。
これは登りきったあたりの風景。
隣のイスラエルの沙漠がよく見える。だが、その先にあるはずの地中海は見えない。
周りが沙漠の丘陵地帯だということがよく分かる。日陰と水場、もしくは貯水槽を備えた場所、というのが、いかに人を引き付けたかというのが実感できる。
なお、この周辺はこんな感じで岩山だらけになっている。平らな部分は谷底にしか無い。
有名な宝物殿やローマ劇場などを辿る観光用のメインルート一本以外はすべて健脚向けのコースとなっている。トレッキングルートではない、地元民が使ってる道も多数あるため、自信がない場合はガイドを雇ったほうがいいと思う。
ビジターセンター横にガイド紹介場があるし、現地の旅行会社に頼んでもいい。
で、「そもそも、こんな山の上に遺跡とかどうやって作ったん」という部分なのだが、これは現地の人たちのロバの使い方を見てたら「あーなるほど…」と思った。よく、山で水や食料を山小屋まで運び上げている歩荷(ぼっか)さんに出会うのだが、ここでは人間ではなくロバが歩荷していたのだ。
ラクダは砂地には強いが斜面が得意なわけではない。それに身体が大きい分、山道には向かない。
小柄なロバなら狭い山道を登るのに適している。重たい荷物を担いだまま、実にうまいこと急斜面を越えていくのである。
この方法が使えるなら、高い山の上で工事している間も、働いている人たちの水食料などは補給出来たはず。
山の麓に集会所や集落を作り、大事な神殿や墓などは山の上…というのも人間心理としては普通だろう。この「エド・ディル」は元はおそらく墓所で、手前の広場は儀式用だったとされている。そしてのちに教会に転用されたことから「修道院」という名前になっている。いずれにせよ、特別な施設として人を集めるために作られたもので、そのためには人が必要なものを下から運び上げる必要があった。
こうした大事な儀式的建造物を機能させることは、さらに人を集めて大きな都市になっていくための前提として必須条件でもあった。
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