トルコ人が祖先とする「テュルク」とは何者だったのか。ルーツとかアイデンティティとかについて
以前、トルコの軍事博物館へ行った時、突厥も匈奴もまとめて「トルコ民族の偉大なる祖先」に入れられているのを目撃した。
その後、近年になってトルコはトゥルキエと名乗るようになった。テュルク人の国としてのルーツを全面に押し出すようになったわけである。が、実際には、今のトルコ人のルーツはテュルクではない。なぜならテュルク人という純粋な民族は過去に一度も存在してことがないから、である。
…という話を、「テュルクの歴史」という本をもとに軽くまとめておきたい。
テュルクの歴史――古代から近現代まで (世界歴史叢書) - カーター・V・フィンドリー, 小松 久男, 小松 久男, 佐々木 紳
まずスタートとして、「テュルク」という民族が表舞台に登場するのは6世紀末から7世紀頃になる。
この時点ですでにテュルクは言語以外に共通点のない雑多な遊牧民部族の習合体だった。逆に言えば、テュルク系諸語を話していれば、歴史基準では全てテュルクの一部として認識される。突厥はテュルク系の中から政体として登場するが、突厥が支配下においた部族は片っ端からテュルク系に含まれるようになっていった。
この「言語しか共通点がない」というゆるいアイデンティティは、近代に至るまで続いている。
要するにテュルク人の起源地とか、純粋な祖先とかいうものは過去に一度も存在したことがない。その実態は、広いステップ地帯で習合離散を繰り返していた雑多な集団のうち、テュルク系言語を話していた人々に、ある時点から「テュルク」という呼び名のラベルを付けたものに過ぎない。(ちなみにこれは、他の民族においても多くが当てはまる。ある時点の集団にその名前のラベルを貼ったものを「xx族」とか「xx人」と呼んでいる。)
政体としての突厥は8世紀に崩壊する。習合離散を繰り返すのが遊牧の民の集団の常、崩壊と同時に分離して西へ移動した集団は多数ある。トルコで見た図だとその全てを先祖扱いにしていたが、これは間違いとも言えないが正しくもない。無関係ではないが先祖そのものではないからだ。
ハザルにしろブルガルにしろ、移住先で現地の少数民族を従えている。現在のトルコに入った集団もそうで、土着民を従えて国を作った。従って、現在のトルコ人の「祖先」は元々そこにいた土着民、もっと具体的に言えば古来から居住していたアナトリア人(その中にはギリシャ系植民地の子孫たちもいただろう)ということになる。
つまり「テュルク」が移住してきたというよりは、少数でよそからやってきた遊牧民に触発されて現地が「テュルク化」したということ。
テュルク系の故郷であるステップ地帯がモンゴリアと呼ばれるようになった頃、アナトリアは「トゥルキア」と初めて呼ばれるようになる。これは12世紀のことで、呼び名をつけたのはヨーロッパの学者たちだったとされる。
トルコ自身がその呼び名を採用するのは第一次世界大戦の終了後、1923年の建国時である。
これは、「テュルクの末裔」や「テュルク人」が、トルコの新しいアイデンティティとしてオスマン帝国の解体と近代化(西洋化)の過程で発見されたことと無縁ではない。
オスマン帝国が解体されるまでは、ギリシャもシリアもエジプトもオスマンの一部=テュルクだった。それらが別々のアイデンティティを得て独立していく中で、残された部分にも他に張り合えるだけの歴史ある民族主義の旗印が必要だった。
それは歴史的に不正確、あるいは一部に過ぎないものでも問題はなかった。何しろ隣のギリシャでさえ、古典ギリシャの時代から何も変わっていない顔をして、古代ギリシャ人の末裔の顔をすることを選んだのだ。トルコ人が東アジアからやってきたテュルク人の血をごく僅かにしか引いていなかったとして、テュルクの末裔を名乗ることになんの問題があるだろうか。
最初から、テュルク系言語を話す者がテュルク人、というゆるい括りしかなかったのだから。
この感覚は、はるか昔から日本列島に暮らし、先祖代々おなじ土地に暮らしてきたと考えている日本人には分かりづらいものだと思う。
ステップの遊牧民たちは移住を繰り返し、習合離散を繰り返すため、部族や民族のラベルはあまり役に立たない。言語と、核となる文化だけが受け継がれていく。そもそもが、トルコの地はテュルクの祖先たちが暮らした土地からはるか西に隔たっている。
かつて軍事博物館であの展示を見た時は思わず笑ってしまったが、今になってみれば、あれは苦肉の策でもあったんだろうなと思う。「これだ」という確たる純粋な祖先がいない以上、テュルク系統で関係のある部族を並べ立てるしかない。展示の中に含まれていた突厥も匈奴もフン族もエフタルも、たしかにテュルク系民族の一部ではあった。
自分がトルコの歴史担当だったとしたら、祖先の歴史をどう書くか…、それも政府の意向により、国威発揚に結びつく形で。
もしかしたら同じ方法をとるかもしれないと、担当者なりに苦労したんだろうなぁと、今ならそう思えるのだ。
その後、近年になってトルコはトゥルキエと名乗るようになった。テュルク人の国としてのルーツを全面に押し出すようになったわけである。が、実際には、今のトルコ人のルーツはテュルクではない。なぜならテュルク人という純粋な民族は過去に一度も存在してことがないから、である。
…という話を、「テュルクの歴史」という本をもとに軽くまとめておきたい。
テュルクの歴史――古代から近現代まで (世界歴史叢書) - カーター・V・フィンドリー, 小松 久男, 小松 久男, 佐々木 紳
まずスタートとして、「テュルク」という民族が表舞台に登場するのは6世紀末から7世紀頃になる。
この時点ですでにテュルクは言語以外に共通点のない雑多な遊牧民部族の習合体だった。逆に言えば、テュルク系諸語を話していれば、歴史基準では全てテュルクの一部として認識される。突厥はテュルク系の中から政体として登場するが、突厥が支配下においた部族は片っ端からテュルク系に含まれるようになっていった。
この「言語しか共通点がない」というゆるいアイデンティティは、近代に至るまで続いている。
要するにテュルク人の起源地とか、純粋な祖先とかいうものは過去に一度も存在したことがない。その実態は、広いステップ地帯で習合離散を繰り返していた雑多な集団のうち、テュルク系言語を話していた人々に、ある時点から「テュルク」という呼び名のラベルを付けたものに過ぎない。(ちなみにこれは、他の民族においても多くが当てはまる。ある時点の集団にその名前のラベルを貼ったものを「xx族」とか「xx人」と呼んでいる。)
政体としての突厥は8世紀に崩壊する。習合離散を繰り返すのが遊牧の民の集団の常、崩壊と同時に分離して西へ移動した集団は多数ある。トルコで見た図だとその全てを先祖扱いにしていたが、これは間違いとも言えないが正しくもない。無関係ではないが先祖そのものではないからだ。
ハザルにしろブルガルにしろ、移住先で現地の少数民族を従えている。現在のトルコに入った集団もそうで、土着民を従えて国を作った。従って、現在のトルコ人の「祖先」は元々そこにいた土着民、もっと具体的に言えば古来から居住していたアナトリア人(その中にはギリシャ系植民地の子孫たちもいただろう)ということになる。
つまり「テュルク」が移住してきたというよりは、少数でよそからやってきた遊牧民に触発されて現地が「テュルク化」したということ。
テュルク系の故郷であるステップ地帯がモンゴリアと呼ばれるようになった頃、アナトリアは「トゥルキア」と初めて呼ばれるようになる。これは12世紀のことで、呼び名をつけたのはヨーロッパの学者たちだったとされる。
トルコ自身がその呼び名を採用するのは第一次世界大戦の終了後、1923年の建国時である。
これは、「テュルクの末裔」や「テュルク人」が、トルコの新しいアイデンティティとしてオスマン帝国の解体と近代化(西洋化)の過程で発見されたことと無縁ではない。
オスマン帝国が解体されるまでは、ギリシャもシリアもエジプトもオスマンの一部=テュルクだった。それらが別々のアイデンティティを得て独立していく中で、残された部分にも他に張り合えるだけの歴史ある民族主義の旗印が必要だった。
それは歴史的に不正確、あるいは一部に過ぎないものでも問題はなかった。何しろ隣のギリシャでさえ、古典ギリシャの時代から何も変わっていない顔をして、古代ギリシャ人の末裔の顔をすることを選んだのだ。トルコ人が東アジアからやってきたテュルク人の血をごく僅かにしか引いていなかったとして、テュルクの末裔を名乗ることになんの問題があるだろうか。
最初から、テュルク系言語を話す者がテュルク人、というゆるい括りしかなかったのだから。
この感覚は、はるか昔から日本列島に暮らし、先祖代々おなじ土地に暮らしてきたと考えている日本人には分かりづらいものだと思う。
ステップの遊牧民たちは移住を繰り返し、習合離散を繰り返すため、部族や民族のラベルはあまり役に立たない。言語と、核となる文化だけが受け継がれていく。そもそもが、トルコの地はテュルクの祖先たちが暮らした土地からはるか西に隔たっている。
かつて軍事博物館であの展示を見た時は思わず笑ってしまったが、今になってみれば、あれは苦肉の策でもあったんだろうなと思う。「これだ」という確たる純粋な祖先がいない以上、テュルク系統で関係のある部族を並べ立てるしかない。展示の中に含まれていた突厥も匈奴もフン族もエフタルも、たしかにテュルク系民族の一部ではあった。
自分がトルコの歴史担当だったとしたら、祖先の歴史をどう書くか…、それも政府の意向により、国威発揚に結びつく形で。
もしかしたら同じ方法をとるかもしれないと、担当者なりに苦労したんだろうなぁと、今ならそう思えるのだ。