文学作品の中のファラオはいつから敬意を払われなくなったのかー「セトナ」シリーズに見るファラオの像

古代エジプト文学作品というと、「シヌヘの物語」が代表的だろう。その他には、あまり有名ではないが「ヨッパ奪取の物語」 、「カエムワセト神話群」と呼ばれる、ラメセス2世の息子カエムワセトを主人公にした魔法と不思議の物語がある。
これらに登場する。

時代一覧はむかし以下に作った。
これらは作品の舞台になった時代でリスト化しているので、カエムワセト神話群はラメセス2世の時代=新王国時代に入れているが、実際に残っているパピルスはローマ支配下のエジプトだったりする。つまりラメセス2世の生きた時代から、軽く千数百年も跡の時代になる。

主要神話文献リスト&時代
http://www.moonover.jp/bekkan/story/bunken.htm

ローマ時代のパピルスでのカエムワセトは「セトナ」という名前になっている。セトナ・カームス。またはサトニ・ハームス。セトナはプタハ神官の称号であるセテムsetem の変化で、名前の部分は Khaemweset(カエムワセト) → Khamwas(カームス) と変化したらしい。

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↑有名なカエムワセト像

で、この物語の面白いところは、ファラオに全然敬意が払われていないというところなのだ。

物語のあらすじは「Setne Khamwas」とか「Setne Ⅰ」「Setne Ⅱ」とかでググればいくらでも出てくるので気になる人には適当に探してもらうとして、注目すべきはⅡのほう。ファラオ・トトメス3世がヌビアの魔術師に捕まって尻叩きの刑に遇うという侮辱を被る。ラメセス2世の時代にも同様にヌビアの魔術師がファラオを害しようとしてくるので、悲劇を防ぐべく転生した最強魔術師がヌビアの魔術師を返り討ちにする。

トトメス3世も、ラメセス2世も、ともに時代を越えて語り継がれる偉大なファラオたちだ。
だが、この物語におけるファラオは、ほとんど敬意を払われていない。ヌビアの魔術師にやりこめられる程度の力しか持たない普通の人間である。

これに対し、同じトトメス3世を扱っている「ヨッパ略奪の物語」では、ヨッパの都市を陥落させるために、優秀な将軍だけでなく「ファラオの威光」、神の力が宿った杖などがキーアイテムとして登場する。

「シヌへの物語」はもう少し前の時代を舞台にした作品だが、ファラオが暗殺されたことに動揺した主人公は国外に逃亡し、次の時代のファラオの時代に帰国する際にはファラオに対し長すぎるほどの堅苦しい呼びかけがなされ、へりくだりまくった謝辞が述べられている。

これには、残ってるパピルスの書き写された時代が関係していると考えるべきだと思う。
物語は時代ごとに変化していくもので、後世に書き写されたものほど、後世の影響を受けている。「セトナ」はデモティックで書かれているからおそらくエジプト人自身が書き写したのだと思うが、ローマ支配時代のエジプト人が、千年以上も昔のファラオに10行も使って敬意を表明することは考えにくい。そのへんは、元のテキストにあったとしてもバッサリ削ったのではないだろうか。

問題は、この「敬意が削られた」時代がいつだったのか、ということだ。


まともに研究すると論文一本書けそうだし、どうせ誰か研究してそうであはるのだが、自分的には、たぶんプトレマイオス朝あたりだろうなあ…と思っている。
プトレマイオス朝で書かれた作品やテキストは、過去の王たちにあまり敬意を払っていない。外来王朝だからというよりは、ギリシャ化して文化が大きく変容していく時代だからだ。そして古代エジプト人の持っていた「王家は万世一系」というタテマエは、この時代には崩れている。エジプト人の神官マネトーが「エジプト史」で王名表を作り、プトレマイオス王家をその正当な末裔として位置づけようとした努力とは裏腹に、古来の伝統や王家の格、神に祝福された血統という神威などはやはり薄れていたのだと思う。

それを裏付けるように、プトレマイオス朝に書かれた「二人兄弟の物語」に登場するファラオも、一般人の使う魔術に翻弄される程度で、あまり敬意が払われていない。神は登場するが、物事をややこしくするだけで何の解決もしない。言っちゃえばギリシャ神話の神々と同程度に人間くさい。これは、たとえばプトレマイオス朝より数千年古く書かれた「ウェストカー・パピルスの物語」に登場する神々が威厳を保っているのと比べると、格段の差だ。

現代より識字率が圧倒的に低い時代、文学作品というのは限られたエリート層だけのたしなみだった。日本で言えば源氏物語のようなものだ。
エリートたちは当然、役人や神官で、王権と深い結び付きがある。現在の王の祖先にあたる過去の王を、ないがしろにして笑いものにするというのは、身内ネタだとしてもなかなか出来なかったのではないかと思う。
現在の王が過去の王から切り離される時代にならなければ無理だ。

そして、文学の中の王の神威凋落は、古来の神々の凋落でもあったのだ。