採集生活と農耕生活のはざまとは。両方やってた東北の事例から

縄文時代には、ドングリ食べていたことが知られている。集落の周囲にクリやどんぐりの木をたくさ飢えて、果樹園のようにしていたことも知られている。そして農耕が始まると、弥生時代として分類される。日本の考古学では伝統的に、農耕、それもコメ栽培を開始しているかどうかに非常に大きな意味が設定されてきた。

だが、最近の研究では、「コメ以前に豆などの栽培はあったのでは?」「焼き畑はしてたのでは?」と言われるようになり、採集から農耕へいきなり切り替わったわけではないのでは、という可能性が検討されるようになってきた。

そもそも、コメが日本列島に伝播していく過程で、採集と農耕が両立していた時代はどのくらいあったのか。
農耕というのはハイリス・ハイリターンな食料の獲得方法なのだ。移住せず一箇所に住んでいられて、一気に大量の穀物が手に入るかわり、天候不順などどうしようもない要因で作物が全滅、または収穫量ががっつり減るということも在り得る。農耕に振り切るのは生存確率を低くしてしまうことになる。並行期間は長く、年によって栽培穀物と採集物の比率が変わっていただけなのかもしれない。

…とかいう話を、つらつら考えていたときに近代の東北の農村で、採集と農耕を両立させていた時期のフィールドワークの本を見つけてしまった。
これがなかなかおもしろい。穀物が足りない時は迷わずどんぐり拾いに行く。なるほど山際に住んでる農民って最近までそういう生活してたのかあ…と思った。
特に、戦後の食糧難の時代、作った供物は「供出」という形で国に召し上げられてしまうから、食料が不足していて山のものに頼っていたというから、何が食べられるのかを見分ける知識、採集した食料を調理する技術などの知識のあるなしが生存を分けたとも言える。
国に召し上げれていた部分が、農耕に不慣れだった時代には天候不順や作物の病気、育成失敗などだったはずだ。作物が不足すれば自然のものに頼る。たぶん、縄文から弥生への移行期もそうだったんじゃないのかと思う。

山棲みの生き方 木の実食・焼畑・狩猟獣・レジリエンス - 岡 惠介
山棲みの生き方 木の実食・焼畑・狩猟獣・レジリエンス - 岡 惠介

この本に出てくるのは北上山地の村だから、他の地域では違っていた可能性もある。が、一つの参考事例として面白い。
まず、どんぐりは「冬から早春の食料」だという点。秋に収穫した穀物は敢えて次の夏までとっておおくのだという。
これは、どんぐりより穀物のほうが保存が効いたから、というのと、穀物のほうが「力が出る」ので、夏場の過酷な作業のためにとっておいたのだという。どんぐりは腹にたまるが馬力が出ない。なんだか面白い理由だなと思った。

まなた、どんぐりは数日分まとめて下処理しているというのも面白いなと思った。
どんぐりアク抜きをしないと食べられない。そのアク抜きが時間のかかる重労働なので、何食ぶんかまとめてやる、というのだ。ただアク抜きをすると日持ちしなくなるので、とっとと食べないといけない。これは縄文時代も同じだったはずだ。近代のアク抜きにはでっかい金属のお鍋を使っていたようだが、ちょうど縄文土器にもでっかいお鍋がよく出土する。あれ、どんぐりをアク抜きで煮てたやつかもしれないなあ。

それと夏は意外と食べられる草が少なく、秋の収穫までの間で一番食料に苦労するのだ、という記載も、なるほどと思った。イメージでは春から夏は植物がたくさんあるから食べられるものも多そうなのだが、可食の山菜リストを見るとたしかに少ない。木の実もない。では冬はというと、先述したどんぐりの貯蔵が在るのと、猟の最盛期なのだそうだ。冬は肉が食えるので山に住んでる人たちは意外と困らないのだ。

以前確認した縄文時代のカロリーカレンダーでも、冬は狩猟の時期に当てられていたが、近代におけるライフサイクルは↓の縄文カレンダーに畑作が嵌め込まれただけで他はあんまり変わっていない感じがした。
海の近くにいればシジミとりなどが入り、山に入れば山菜とりが入る、みたいな感じで、基本バリエーションは一緒。

縄文時代、一年のタイムスケジュールめっちゃキツくねぇ・・・?
https://55096962.seesaa.net/article/201808article_26.html

なんとなく、採集と農耕のはざま、並行期間というものが見えてきた。
そう、実は我々、近代に至るまでずっと 採集と農耕を並行して実施していた んじゃないかと…。境目ないな。てか、どっちかに振り切る意味ないもんな。

というわけで、縄文時代を採集の時代、弥生時代を農耕の時代、と年表できっちり切る意味ないな、というのが自分の結論となった。
単なる比率の問題。ずっと両方やってたんだね。