史実と後世の伝承のはざま 古代エジプト神官イムホテプの伝承はどこまで史実なのか
某ゲームでイムホテプが美少女にされてるのを見てゲラッゲラ笑ってた中の人、その流れで何故かWikipediaのイムホテプのページがすげぇことになっていることに気づいてしまった…。
どうしてこうなった?! と思ったのも最初のうち。どうしてこうなったのかだいたい分かっちゃった。
あーうん。なんか適当な本に引っかかったか、読み間違えたか何かだな…。どうして勘違いしたのかの経緯を追っていくのは面白いので、とりあえずポイントをまとめておこう。
イムホテプ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%97
参考:自分とこで作ってるイムホテプのページ
http://www.moonover.jp/bekkan/god/imhotep.htm
まず前提として、イムホテプは古代エジプト第三王朝(紀元前2600-500年頃)、ジェセル王の時代に実在したとされる人物である。意外でも何でもないのだが、時代が古すぎて同時代の資料は存在しない。イムホテプが書いたとされる文学作品も、「書いたとされる」だけで現存しない。
彼が実在したとされる唯一の確実な証拠は、階段ピラミッド前の神殿部分から出土した王像の基壇部分に記載された名前と肩書で、そこにあった肩書は「王の宝庫長、王の次席にある者、王宮の長、世襲貴族、偉大なる予言者、および石工と画家の監督官」である。(古代エジプト文明辞典/柊風社)
つまりトト神の神官とかの肩書は存在しない。
後に神格化され、医療の神としてギリシャの神アスクレピオスと同一視されるようになる。神格化されたのは第二十六王朝(紀元前664年-525年)、サイス朝の時代とされる。
ここまでが史実としての確実な「イムホテプ」である。
ではWikipediaの記事は何を勘違いしたのかというと、後世に付け足された伝承と、彼が生きていた時代の史実をごっちゃにしたのである。
生きてた時代から医療の神となるまでに2000年が経過している。
Wikipediaの記事を書いた人は、「死後何世紀にも渡り」と書いているが、実際は「何十世紀」であり、正式に神として崇められるようになった時代には、もはや実在の人物だったのか、どこまで史実だったのかすら分からなくなっていた。
たとえば日本で神格化され、伝説化されている安倍晴明は、たったの1000年前の人である。その二倍以上の時間が経過した時代に原型がどんだけ残ってると思います…? という話だったりする。
付け足しておくと、神格化されはじめた最古の証拠は新王国時代のアメンホテプ3世時代の資料で、末期王朝になってから突然神格化されたわけではない。「紀元前525年、正式にパンテオンで~」はサイス朝の終了時期と合わせた記述に過ぎない。
より正確に言うと、彼の祭祀が本格的に開始された記録はイアフメス2世の時代なので、紀元前525年ではなくもうちょっと早かったはずである。
というわけで、後世の伝承部分について解説していく。
前述したように「トート神の神官」という部分は史実としては存在せず、後世の付け足しである。イムホテプは、生前に「訓戒」と呼ばれる文学を記載したと伝承される。訓戒とは年長者が若者たちに教訓を与える体裁で書かれる作品のことで、古代エジプト文学を探すと「xx(人物名)の訓戒」という作品がいくつも見つかると思う。その内容がよっぽど良かったのか、新王国時代ごろには書紀の守り神、日本で言う菅原道真ポジションを獲得していたように思われる。
その過程で、知恵の神トトと同一視されたり、あるいは元々トト神の神官だったことにされていったのだと思われる。
ただし、イムホテプの生きていた時代は紀元前2500年頃、第三王朝である。よく知られているエジプト神話はだいたい新王国時代以降のもので、ピラミッドが作られていた時代の神話はかなり毛色が違うことに注意しておく必要がある。
少し時代の進んだ第五王朝、ピラミッド内部にピラミッド・テキストとして神話が書かれるようになった時代のトト神は、セトとともにオシリス神を殺したと読める部分があり、ホルス神の味方ではなかった可能性がある。トキの姿のトト神すら出てこないので、まだ狒々の姿しか無かったかもしれない。
つまり、純粋な書記の守護者であり、座ったトキの姿をしたトト神を想像するのであれば、それは第三王朝の時代に信仰されていた神(名前の発音もだいぶ違うので、のちのトト神に該当する神格)とは異なる可能性が高い。
トト神官だった、という属性は後から付けられたもので、より前の属性はプタハ神の神官というものだと思われる。
プタハ神が人間の女性に宿した息子である、とする神話があるからだ。プタハ神は書記王朝時代から崇拝されている神で工人の守護者であり、ピラミッド建造に関わっていたこととも関連する。
祭儀文朗読うんぬんがどこから来たかは良くわからないが、たぶん朗唱神官のことを言っているのだと思う。実際の彼は宰相でありピラミッド建設の現場監督官なのでちょっと違う。ただ当時の偉い人はだいたい兼任で、宰相しながら高位神官だったり王女の娘婿だったりということはよくあるパターンなのでまぁそんな大きく違うとも言えない。
ナイル川が氾濫せず七年の飢饉うんぬんは、エレファンティネ付近の川の中にあるセヘール島に建てられているプトレマイオス朝の碑文、通称「飢饉の碑」が出処だとすぐ分かる。この碑文は七年もの間増水が発生しなかったため、クヌム神に機嫌を直してくれるよう懇願するという内容になっている。
碑文自体はプトレマイオス朝のものだがオリジナルはジェセル王の時代にあった、と記載されているためジェセル王の時代の史実だと勘違いする人も多いのだが、実際にジェセル王の時代に飢饉があった証拠はない。そして過去の事実がそのまま記載されていると信じるには根拠が薄い。なにしろプトレマイオス朝だと、サイス朝からさらに数百年後なので…。そもそも「七年」などというキリのいい年数の飢饉という時点で伝説化するために話盛ったなという感じである。
またこの碑文はエレファンティネにあり、クヌム神/アンケト女神/サティス女神など南方の神々の神域なので、ぶっちゃけトト神は関係ない。そしてパピルス文書ではなく石碑である。
つまりWikipediaの記載の「古代文書が発見されている。」の部分は嘘かウロ覚えの知識から来ている。
そしてジェセル王のピラミッド設計者であるという部分だが、意外かもしれないが、彼が階段ピラミッドの設計者であるという証拠は存在しない。 実はここも後世の伝承なのである。
肩書きに「石工と画家の監督官」があるのでピラミッド建造に関わっていたのは事実のようなのだが、設計者という同時代の肩書き・記録は発見されていない。仕上げ部分しかやってないようにも見え、実際、後世の伝承の中には「ピラミッド表面の化粧石部分を担当した」としているものもある。(※マネトーによる記述)
ちなみに、メソポタミア出身とする説がある、という部分もここから来ている。
階段ピラミッド周壁の作り方がメソポタミアの建築様式に似ている→メソポタミアのジッグラド建設の知識がエジプトに伝わったのでは? という説から、それならピラミッド設計者のイムホテプはメソポタミア渡来人だろう! という飛躍的な記述をしている本もたまに見かける。おそらくそこから引用してしまったのだと思う。イムホテプがどうやら王族ではなく庶民の出で、昇進に昇進を重ねて地位を築いたようだ、とする研究があるため、想像力をたくましくした結果だと思う。
だが、イムホテプが外来人だという証拠はなにもない。名前自体はエジプト人のものだし、メソポタミアの建築技術を流用するにしても、技術者連れてくればいいだけなので、お話として面白い以外に採用する妥当性はない。
あと付け足しておくならば、イムホテプの像が大量生産されはじめるのは紀元前6世紀頃からで、それまでほとんど図や像で現されたものが残っていない。ディル・エル・バハリのハトシェプスト葬祭殿の壁面にある像もプトレマイオス朝になってから付け足されたもの。イムホテプ信仰はエジプト人よりむしろギリシャ人入植者のほうにウケたのでは、という感じであり、後世に付け足された神話伝承があまりにも多いのだ。
なので最低でも、「生きていたのと同時代の記録=史実」、「死後に神格化されはじめた頃」、「神としてイメージが確立された以降」の3ステップに分けて理解する必要がある。
繰り返しになるが、歴史上の人物としてのイムホテプは紀元前2600-500年頃に生きていた。
現存する伝承や像の大半は、それから2000年後のものである。
この間に神話も信仰も変化し続けていたことは忘れずに考慮しなければならない。自分が見ている資料の断片はどこの時代のものなのか。これを忘れると、古代エジプト関連の記述はあやふやなものになりがちなことを意識しておきたい。自戒も込めて。
どうしてこうなった?! と思ったのも最初のうち。どうしてこうなったのかだいたい分かっちゃった。
あーうん。なんか適当な本に引っかかったか、読み間違えたか何かだな…。どうして勘違いしたのかの経緯を追っていくのは面白いので、とりあえずポイントをまとめておこう。
イムホテプ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%97
参考:自分とこで作ってるイムホテプのページ
http://www.moonover.jp/bekkan/god/imhotep.htm
まず前提として、イムホテプは古代エジプト第三王朝(紀元前2600-500年頃)、ジェセル王の時代に実在したとされる人物である。意外でも何でもないのだが、時代が古すぎて同時代の資料は存在しない。イムホテプが書いたとされる文学作品も、「書いたとされる」だけで現存しない。
彼が実在したとされる唯一の確実な証拠は、階段ピラミッド前の神殿部分から出土した王像の基壇部分に記載された名前と肩書で、そこにあった肩書は「王の宝庫長、王の次席にある者、王宮の長、世襲貴族、偉大なる予言者、および石工と画家の監督官」である。(古代エジプト文明辞典/柊風社)
つまりトト神の神官とかの肩書は存在しない。
後に神格化され、医療の神としてギリシャの神アスクレピオスと同一視されるようになる。神格化されたのは第二十六王朝(紀元前664年-525年)、サイス朝の時代とされる。
ここまでが史実としての確実な「イムホテプ」である。
ではWikipediaの記事は何を勘違いしたのかというと、後世に付け足された伝承と、彼が生きていた時代の史実をごっちゃにしたのである。
生きてた時代から医療の神となるまでに2000年が経過している。
Wikipediaの記事を書いた人は、「死後何世紀にも渡り」と書いているが、実際は「何十世紀」であり、正式に神として崇められるようになった時代には、もはや実在の人物だったのか、どこまで史実だったのかすら分からなくなっていた。
たとえば日本で神格化され、伝説化されている安倍晴明は、たったの1000年前の人である。その二倍以上の時間が経過した時代に原型がどんだけ残ってると思います…? という話だったりする。
付け足しておくと、神格化されはじめた最古の証拠は新王国時代のアメンホテプ3世時代の資料で、末期王朝になってから突然神格化されたわけではない。「紀元前525年、正式にパンテオンで~」はサイス朝の終了時期と合わせた記述に過ぎない。
より正確に言うと、彼の祭祀が本格的に開始された記録はイアフメス2世の時代なので、紀元前525年ではなくもうちょっと早かったはずである。
というわけで、後世の伝承部分について解説していく。
前述したように「トート神の神官」という部分は史実としては存在せず、後世の付け足しである。イムホテプは、生前に「訓戒」と呼ばれる文学を記載したと伝承される。訓戒とは年長者が若者たちに教訓を与える体裁で書かれる作品のことで、古代エジプト文学を探すと「xx(人物名)の訓戒」という作品がいくつも見つかると思う。その内容がよっぽど良かったのか、新王国時代ごろには書紀の守り神、日本で言う菅原道真ポジションを獲得していたように思われる。
その過程で、知恵の神トトと同一視されたり、あるいは元々トト神の神官だったことにされていったのだと思われる。
ただし、イムホテプの生きていた時代は紀元前2500年頃、第三王朝である。よく知られているエジプト神話はだいたい新王国時代以降のもので、ピラミッドが作られていた時代の神話はかなり毛色が違うことに注意しておく必要がある。
少し時代の進んだ第五王朝、ピラミッド内部にピラミッド・テキストとして神話が書かれるようになった時代のトト神は、セトとともにオシリス神を殺したと読める部分があり、ホルス神の味方ではなかった可能性がある。トキの姿のトト神すら出てこないので、まだ狒々の姿しか無かったかもしれない。
つまり、純粋な書記の守護者であり、座ったトキの姿をしたトト神を想像するのであれば、それは第三王朝の時代に信仰されていた神(名前の発音もだいぶ違うので、のちのトト神に該当する神格)とは異なる可能性が高い。
トト神官だった、という属性は後から付けられたもので、より前の属性はプタハ神の神官というものだと思われる。
プタハ神が人間の女性に宿した息子である、とする神話があるからだ。プタハ神は書記王朝時代から崇拝されている神で工人の守護者であり、ピラミッド建造に関わっていたこととも関連する。
祭儀文朗読うんぬんがどこから来たかは良くわからないが、たぶん朗唱神官のことを言っているのだと思う。実際の彼は宰相でありピラミッド建設の現場監督官なのでちょっと違う。ただ当時の偉い人はだいたい兼任で、宰相しながら高位神官だったり王女の娘婿だったりということはよくあるパターンなのでまぁそんな大きく違うとも言えない。
ナイル川が氾濫せず七年の飢饉うんぬんは、エレファンティネ付近の川の中にあるセヘール島に建てられているプトレマイオス朝の碑文、通称「飢饉の碑」が出処だとすぐ分かる。この碑文は七年もの間増水が発生しなかったため、クヌム神に機嫌を直してくれるよう懇願するという内容になっている。
碑文自体はプトレマイオス朝のものだがオリジナルはジェセル王の時代にあった、と記載されているためジェセル王の時代の史実だと勘違いする人も多いのだが、実際にジェセル王の時代に飢饉があった証拠はない。そして過去の事実がそのまま記載されていると信じるには根拠が薄い。なにしろプトレマイオス朝だと、サイス朝からさらに数百年後なので…。そもそも「七年」などというキリのいい年数の飢饉という時点で伝説化するために話盛ったなという感じである。
またこの碑文はエレファンティネにあり、クヌム神/アンケト女神/サティス女神など南方の神々の神域なので、ぶっちゃけトト神は関係ない。そしてパピルス文書ではなく石碑である。
つまりWikipediaの記載の「古代文書が発見されている。」の部分は嘘かウロ覚えの知識から来ている。
そしてジェセル王のピラミッド設計者であるという部分だが、意外かもしれないが、彼が階段ピラミッドの設計者であるという証拠は存在しない。 実はここも後世の伝承なのである。
肩書きに「石工と画家の監督官」があるのでピラミッド建造に関わっていたのは事実のようなのだが、設計者という同時代の肩書き・記録は発見されていない。仕上げ部分しかやってないようにも見え、実際、後世の伝承の中には「ピラミッド表面の化粧石部分を担当した」としているものもある。(※マネトーによる記述)
ちなみに、メソポタミア出身とする説がある、という部分もここから来ている。
階段ピラミッド周壁の作り方がメソポタミアの建築様式に似ている→メソポタミアのジッグラド建設の知識がエジプトに伝わったのでは? という説から、それならピラミッド設計者のイムホテプはメソポタミア渡来人だろう! という飛躍的な記述をしている本もたまに見かける。おそらくそこから引用してしまったのだと思う。イムホテプがどうやら王族ではなく庶民の出で、昇進に昇進を重ねて地位を築いたようだ、とする研究があるため、想像力をたくましくした結果だと思う。
だが、イムホテプが外来人だという証拠はなにもない。名前自体はエジプト人のものだし、メソポタミアの建築技術を流用するにしても、技術者連れてくればいいだけなので、お話として面白い以外に採用する妥当性はない。
あと付け足しておくならば、イムホテプの像が大量生産されはじめるのは紀元前6世紀頃からで、それまでほとんど図や像で現されたものが残っていない。ディル・エル・バハリのハトシェプスト葬祭殿の壁面にある像もプトレマイオス朝になってから付け足されたもの。イムホテプ信仰はエジプト人よりむしろギリシャ人入植者のほうにウケたのでは、という感じであり、後世に付け足された神話伝承があまりにも多いのだ。
なので最低でも、「生きていたのと同時代の記録=史実」、「死後に神格化されはじめた頃」、「神としてイメージが確立された以降」の3ステップに分けて理解する必要がある。
繰り返しになるが、歴史上の人物としてのイムホテプは紀元前2600-500年頃に生きていた。
現存する伝承や像の大半は、それから2000年後のものである。
この間に神話も信仰も変化し続けていたことは忘れずに考慮しなければならない。自分が見ている資料の断片はどこの時代のものなのか。これを忘れると、古代エジプト関連の記述はあやふやなものになりがちなことを意識しておきたい。自戒も込めて。