ガザは現代の「ゲルニカ」なのでは。なのに批判も絵も描かれないのは不思議で仕方がない

詳しい人が散々語り尽くしているだろうから、ここでは細かい説明はしないが、いま起きているイスラエル軍によるガザ空爆は、はっきり言えば報復の域を越え、もはやテロとの戦いですらなく、民間人の無差別虐殺である。ニュースを見ながら思い出していたのは、ピカソによる有名な絵画「ゲルニカ」だ。

今この状態。

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なのに、かつてナチス・ドイツやファシスト・イタリアが行った空爆のように批判されない。これは実に奇妙で、同時に恐ろしいことだと思った。
もちろんゲルニカ空爆についても、正当な攻撃と見做す見方があることは知っている。問題は、批判の仕方やヨーロッパ世界の受容の仕方の違いの部分だ。

「攻撃するのが誰か」によって批判する/しない、あるいは批判の強/弱が変わってしまうのなら、それはプロパガンダや衆愚政治を警戒すべき場面ではないかと思う。パレスチナとイスラエルの、どちらが悪いとかそういう問題ではない。自分たちの意見形成や世間の雰囲気というものが、誰かの都合のよいものに作り変えられていないかを疑ってかからなければならない。
自分はわりとアフリカや中東のメディアも見るほうなので、ヨーロッパ世界の報道のされ方にものすごく、もやっとしたものを感じている。ただ単に感性が違うだけなのか、政治的な意図を持ってやっているのか。

それと、現代の画家や作家たちは、この惨状を見てもまだ「ゲルニカ」が描けないのか、ということ。現代にはピカソがいないからか。それとも、どこかに埋もれているだけなのか。


かつてボスニア紛争について調べていた時に書いたものだが、現代の戦争は、情報・プロパガンダ戦という側面を持つ
最近はAIによるフェイクニュースの量産、サイバー攻撃など、その戦争のあり方は多面化し、激しさを増している。しかし根本にあるものは変わっておらず、「人がどう感じるか」「どう受け取るか」なのである。
そして、それを左右しているのが報道のされ方

ボスニア紛争を動かした写真/報道が決める善と悪
https://55096962.seesaa.net/article/201601article_27.html

ボスニア紛争に見る報道の偏向、「記者は何をしなかったのか」「これから何を成すべきか」
https://55096962.seesaa.net/article/201602article_1.html

ユーゴスラビア内戦時期の貴重な証言集「解体ユーゴスラビア」
https://55096962.seesaa.net/article/201602article_12.html

この時から状況は何も変わっていない。むしろ悪化している。自分もそうだが、人間は認知領域においては成長しづらい生き物なのだと思う。
もしも今、ウクライナに対するロシアの行為のように、イスラエルによる空爆と民間人の死者が大々的に宣伝され、毎日のように批判されていたら、世間の潮目は変わっていただろう。もちろんハマスによるテロや解放されていない人質のことはあるが、それはそれとして毎日のように民間人を殺しておきながら、ここまで批判されない報道のされ方が、ただただ恐ろしい。

21世紀の情報化時代にこういうのアリなんだ…?