人類の誕生から近代までの宗教一直線「ホモ・サピエンスの宗教史」
ぺらっとめくったらエジプトの宗教の話ししてたから、スッ…てレジにいった。
エジプトの話が出てくる本は取り敢えず読む。いつものアレ。
分厚いが、前半は原始時代~古代あたりの原始宗教まで、後半は一神教などお馴染みの世界宗教や宗教改革といった歴史の話で、後半部分は他にいろんな本で詳しく触れられている人気ジャンル(?)かと思う。なので自分は後半はさらっと読んで、前半部分をじっくり楽しませてもらった。
「宗教史」であるからには後半も必要だったのだろうが、著者の筆のノリも前半部分のほうが良かったと思う。
ホモ・サピエンスの宗教史-宗教は人類になにをもたらしたのか (中公選書 142) - 竹沢 尚一郎
現生人類は宗教を持つが、オランウータンやボノボなどは持たない。ならば信仰や宗教というものはいつ発生し、なぜヒトだけが持つようになったのか。
この本の始まりはそこからである。
面白いのは忍耐的に脆弱なヒトは群れることを生存戦略としていたために集団が大きく、結束も強かったはずだという生物学的な話が出てくること。共同生活をする上で、大きな獲物を狩ってみんなでお祝いしたり分けあったりするという祝祭が生まれる。つまり共同体で体験共有をするということが宗教の始まりとして想定されている。
実はわりと最近、似たような話を別の本でも読んでいた。
「イスラエルの原始宗教」という本で、一神教が誕生する以前の長い長い前段の部分で、宗教の始まりについての説明があった。この本でも、宗教は人が集まって「聖なる体験」を共有することからスタートしたのでは、ということが書かれていた。
古代イスラエル宗教史: 先史時代からユダヤ教・キリスト教の成立まで - ティリー,M., ツヴィッケル,W., 哲雄, 山我
文字のない、記録も何もない時代のことだから、確かなことは何も言えない。物証も少ない。
しかし、宗教がまず共同体の特別な体験から始まったという意見は、私も在り得ると思っている。オランウータンやボノボなどは基本的に血縁関係で群れを作る。しかしヒトは、群れ以外の他人にも共感できる。そこが特別なのではないかと思う。
集団が大きくなるということは、血縁関係の疎遠なメンバーも大勢いたはずで、そうした「他人」も共同体メンバーとして認識し、共感することができる。そのへんに、宗教が誕生していくヒントがありそうな気もする。
で、宗教の萌芽が誕生したあとは、狩猟採集の時代が長く続く。この時代の宗教については、おそらく似ていただろうアフリカやオーストラリアなどの狩猟採集民族の宗教記録が事例として挙げられているのだが、読んでいてふと気づいたことがある。
古代エジプトの宗教は、基本的にアフリカ宗教の基本をなぞっているのだ。
本の構成としては、古代エジプトの宗教は農耕牧畜・定住が始まってからの段階に記載されているのだが、ファラオという宗教的な権威と世俗の権威を兼ね備えた「聖王」のポジションや、王の体に聖なる力(王権)が宿って特別なものになる、という概念などはアフリカの諸部族の宗教と共通する概念になる。
また、アフリカの諸部族の宗教では「王は健康であるべき」として壮健であることを示さねばならないものが多いが、これはエジプトでは「セド祭」という王がランニングする祝祭として行われていた。
フォーマットが似ているといえば、王に王冠という特別な装備を置くという下り。メソポタミアの王には王冠というアイテムは無い。(角のついた帽子はあるが、あれは神性を表すものなので王権の象徴とは違う)
古代エジプトの王がかぶる白冠に似た形状は、サハラの岩絵にも描かれている。王冠という概念は、まだサハラ沙漠に緑があった古い時代に既に生まれていた概念ではないかと思うのだ。
アフリカの小国家の王たちは、王冠以外にも首飾りや杖など特別なアイテムを身につけることで呪力や権力を象徴するが、よく考えてみたらそれも古代エジプトの王と同じ。
古代エジプト宗教は、実はアフリカ宗教の要素が強く、農耕・定住が始まって国家が成立した後もひたすらアミニズムの伝統を踏襲していたんじゃないかという気がしてきた。だとしたら、動物の姿をした神を人格神として崇め続けたのも分かる。人と動物が同じ世界に属していて、相互に置き換え可能な時代から宗教概念が連続していたからだ。人はまだ、自然界の中で特別な存在にはなってなかったのだ。(もっとも、紀元前1000年あたりからこの概念も崩れる。動物は捧げ物として消費される傾向が強くなっていった)
あとひとつ思ったのは、原始宗教が「共同体の構成員による共同体験」「他者との共感」から始まっているのなら、現代世界は、それがより簡単に行える時代だということだ。
たとえば、ある一つのテレビ番組を見た多くの人々がSNSで似たような感想を皆でつぶやきあってそれを閲覧しているのは、別々の場所にいながら共同体験をし、共感している状況になる。
何かのイベントでの共感、同じ本を読んでいるファンの集まり、同じ趣味の人たちのサークル。いずれも共同体験や他者との共感を産む場であり、場合によっては原始宗教と呼べる信仰のようなものが生まれているかもしれない。
アイドルグループの追っかけをしている人たちや、特定の作家の熱烈なファンが「信者」と呼ばれるのは、あながち間違いではないということになる。
皮肉にも、宗教の存在感が薄れつつある現代こそ、宗教の原型である「体験の共有」は頻繁に、多くの種類が行われている。
これが意味するところは、誰か現代宗教に詳しい人に論じてもらいたい。(丸投げ)
エジプトの話が出てくる本は取り敢えず読む。いつものアレ。
分厚いが、前半は原始時代~古代あたりの原始宗教まで、後半は一神教などお馴染みの世界宗教や宗教改革といった歴史の話で、後半部分は他にいろんな本で詳しく触れられている人気ジャンル(?)かと思う。なので自分は後半はさらっと読んで、前半部分をじっくり楽しませてもらった。
「宗教史」であるからには後半も必要だったのだろうが、著者の筆のノリも前半部分のほうが良かったと思う。
ホモ・サピエンスの宗教史-宗教は人類になにをもたらしたのか (中公選書 142) - 竹沢 尚一郎
現生人類は宗教を持つが、オランウータンやボノボなどは持たない。ならば信仰や宗教というものはいつ発生し、なぜヒトだけが持つようになったのか。
この本の始まりはそこからである。
面白いのは忍耐的に脆弱なヒトは群れることを生存戦略としていたために集団が大きく、結束も強かったはずだという生物学的な話が出てくること。共同生活をする上で、大きな獲物を狩ってみんなでお祝いしたり分けあったりするという祝祭が生まれる。つまり共同体で体験共有をするということが宗教の始まりとして想定されている。
実はわりと最近、似たような話を別の本でも読んでいた。
「イスラエルの原始宗教」という本で、一神教が誕生する以前の長い長い前段の部分で、宗教の始まりについての説明があった。この本でも、宗教は人が集まって「聖なる体験」を共有することからスタートしたのでは、ということが書かれていた。
古代イスラエル宗教史: 先史時代からユダヤ教・キリスト教の成立まで - ティリー,M., ツヴィッケル,W., 哲雄, 山我
文字のない、記録も何もない時代のことだから、確かなことは何も言えない。物証も少ない。
しかし、宗教がまず共同体の特別な体験から始まったという意見は、私も在り得ると思っている。オランウータンやボノボなどは基本的に血縁関係で群れを作る。しかしヒトは、群れ以外の他人にも共感できる。そこが特別なのではないかと思う。
集団が大きくなるということは、血縁関係の疎遠なメンバーも大勢いたはずで、そうした「他人」も共同体メンバーとして認識し、共感することができる。そのへんに、宗教が誕生していくヒントがありそうな気もする。
で、宗教の萌芽が誕生したあとは、狩猟採集の時代が長く続く。この時代の宗教については、おそらく似ていただろうアフリカやオーストラリアなどの狩猟採集民族の宗教記録が事例として挙げられているのだが、読んでいてふと気づいたことがある。
古代エジプトの宗教は、基本的にアフリカ宗教の基本をなぞっているのだ。
本の構成としては、古代エジプトの宗教は農耕牧畜・定住が始まってからの段階に記載されているのだが、ファラオという宗教的な権威と世俗の権威を兼ね備えた「聖王」のポジションや、王の体に聖なる力(王権)が宿って特別なものになる、という概念などはアフリカの諸部族の宗教と共通する概念になる。
また、アフリカの諸部族の宗教では「王は健康であるべき」として壮健であることを示さねばならないものが多いが、これはエジプトでは「セド祭」という王がランニングする祝祭として行われていた。
フォーマットが似ているといえば、王に王冠という特別な装備を置くという下り。メソポタミアの王には王冠というアイテムは無い。(角のついた帽子はあるが、あれは神性を表すものなので王権の象徴とは違う)
古代エジプトの王がかぶる白冠に似た形状は、サハラの岩絵にも描かれている。王冠という概念は、まだサハラ沙漠に緑があった古い時代に既に生まれていた概念ではないかと思うのだ。
アフリカの小国家の王たちは、王冠以外にも首飾りや杖など特別なアイテムを身につけることで呪力や権力を象徴するが、よく考えてみたらそれも古代エジプトの王と同じ。
古代エジプト宗教は、実はアフリカ宗教の要素が強く、農耕・定住が始まって国家が成立した後もひたすらアミニズムの伝統を踏襲していたんじゃないかという気がしてきた。だとしたら、動物の姿をした神を人格神として崇め続けたのも分かる。人と動物が同じ世界に属していて、相互に置き換え可能な時代から宗教概念が連続していたからだ。人はまだ、自然界の中で特別な存在にはなってなかったのだ。(もっとも、紀元前1000年あたりからこの概念も崩れる。動物は捧げ物として消費される傾向が強くなっていった)
あとひとつ思ったのは、原始宗教が「共同体の構成員による共同体験」「他者との共感」から始まっているのなら、現代世界は、それがより簡単に行える時代だということだ。
たとえば、ある一つのテレビ番組を見た多くの人々がSNSで似たような感想を皆でつぶやきあってそれを閲覧しているのは、別々の場所にいながら共同体験をし、共感している状況になる。
何かのイベントでの共感、同じ本を読んでいるファンの集まり、同じ趣味の人たちのサークル。いずれも共同体験や他者との共感を産む場であり、場合によっては原始宗教と呼べる信仰のようなものが生まれているかもしれない。
アイドルグループの追っかけをしている人たちや、特定の作家の熱烈なファンが「信者」と呼ばれるのは、あながち間違いではないということになる。
皮肉にも、宗教の存在感が薄れつつある現代こそ、宗教の原型である「体験の共有」は頻繁に、多くの種類が行われている。
これが意味するところは、誰か現代宗教に詳しい人に論じてもらいたい。(丸投げ)