王になったら港作り。戦争になったら港を制圧。古代エジプトの要所「港」について

正月ごろには古代エジプトで「薬屋のひとりごと」みたいなやつやりてえな、と思って医療パピルス読んでたのに、色々あって出来上がったものは、何か普通に人が死んだりする推理ものだった。勢いでシリーズ化してしまっていま三章まであるので興味ある人は古代エジプトクイズだと思ってご笑覧ください。

さて、これを書くにあたってちょっとメンフィスの港について調べていた。
古代エジプトはナイル川が幹線道路の役割を果たしており、車輪付きの乗り物をほぼ使わなかったのである。第二中間期の終わり頃にウマといっしょにチャリオット(車輪のついた戦車)は入ってきたのだが、その車輪を荷車などに転用することは、面白いほどやっていない。生活圏なら水路で移動できるし、最初から陸路は眼中になかったのだろう。(余談だが、橋もない。そう、橋も! 単語も描写も出てこないので、おそらく水路渡るのには渡し船とか使ってた)

船が交通のかなめということは、当然、船着き場/造船所が重要になってくる。小舟ならともかくでかい木造船は港がないと発着できない。そしてナイル川に沿って主要都市が並んでいるということは、船がないと国土内の連絡が取れないし、軍隊も移動できないそして物資も移動させられないということである。

メンフィスから国土南端のアスワンまで船で一週間(古代の一週間は十日)以上かかった、という記述もあったが、連絡網はやっぱり船なんである。そして以前調べたように、税収の穀物も船で運搬されてくる。
港めちゃくちゃ重要。王になったら、まず首都には立派な港を作っておかなければならない。伝令を出すにも、地徴収した税金を運ぶにも、戦力を移動させるにもお船が必要。かつて首都だったメンフィスに立派な船着き場があったのは、そりゃそうだろっって話なんである。港ないと首都になれない。

そして王たるもの要所要所に港を築くことも必要。古王国時代の王たちは、既に遠征するために航海沿岸に港を築いていた。シナイを支配するためには、港がないとだめだったからだ。

裏を返せば、戦争する場合、まず要所の抑えるところからスタートっていうのは理にかなっている。
たとえば第二中間期の終わり、国土の再統一を目指したカメス王は、アヴァリスに首都を置くヒクソス王朝に挑む際に最初にアヴァリスから下流にあった港を制圧している。港押さえちゃえば軍を展開できないし、援軍の輸送も出来ないからなのだ。なんで要塞スルーして最初に港なんだよ、って思ってたけど、意味が分かった。

古代エジプトのナイル川沿いの戦争は、要塞より港のほうが重要だったんだ…。

あと、アメンホテプ2世が王子の時代にメンフィスの南に建設したペル・ネフェル造船所は、王家肝いりの施設だったようで、ヴェネツィアでいうアルセナーレに該当するかと思う。
古代エジプト人は意地でも海に出ない、海洋民族にはなれない人々と言われてきたが、よく調べてみると「海にはあんまり出ないが川舟はめちゃくちゃ重要」、むしろ川に特化した水利の民だったんだなということが見えてきた。

調べてみると面白い、古代エジプトの船の、そして港の使われ方。
残念ながらナイル川沿いの港は川の堆積物や現代の町並みに隠れてほとんど遺構も残っていない。構造は航海沿岸のそこそこ残ってる遺跡を参考にするしかないのだが、主要都市にはもれなく立派な港がついていたはずなのだ。


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ちなみに作り方は墓の壁画とかに残ってて、ティ(Ty)のマスタバの絵とか有名。
釘がない時代なので、縄で板を「つなぎ合わせて」作るのが特徴。それで沈まないんだから、すごいと思うんだよね…。

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