古代エジプトの世俗法廷「ケンベト」と古代エジプトの法制度についての覚書き
ケンベト(kenbet)とは古代エジプトで新王国時代に採用されていた民間法廷のこと。日本で言うと「自治体が独自で持つ司法組織」とか「軽犯罪は各村で独自にお裁きをしている」みたいな感じの制度。現代の地方裁判所よりももうちょいランクは低そうな雰囲気である。
重要な犯罪は、下エジプトならメンフィス、上エジプトならテーベにある大法廷(高等裁判所に匹敵)で裁くのが一般的だったようなのだが、それ以外は各自治体でのお裁きをやっていたのである。
だいたいの棲み分けは以下。
===============
●国家に対する犯罪
(農地や軍属からの)脱走、反逆、王への中傷、王族の墓荒らし、汚職
死罪になるような重罪はこちら
●個人に対する犯罪
殺人、傷害、強盗、窃盗、中傷
基本的に死罪は行わない
===============
このへんの資料は以下など。
Ancient Egyptian Legal System
https://www.crystalinks.com/egyptlegalsystem.html
Egypt's pharaohs delivered divine justice from beyond the grave
https://www.nationalgeographic.com/history/history-magazine/article/egyptian-pharaohs-laws-and-punishments
罰則はムチ打ち(というか棒で殴る)という、比較的平和であんまり手のかからないやつがよく知られている。なんかあんまり手のこんだ公開処刑みたいなのはしなかったらしい。
ただ、殺人も地方法廷で裁かれているので、殺人の場合はさすがにちょっと罪は重め(ムチ打ち回数が半死半生になるくらいまで多かった?)なのでは、とか、ムチ打ち+追放 くらいはあったのでは? という気はする。そのあたりは残っている判決事例で確認するしかないが、法律書のようなものはなかったため地方ごとにわりと基準はバラバラ。
面白いのは、法律書のような全国共通の基準はなく、専門の裁判官すらいなかったのに、司法制度自体はかなり作り込まれており、「村長がよしなに争いを収めること」のような結果部分に重きを置いていたこと。これはおそらく中世あたりの日本と似た感じで、古代エジプト人にとっての「世間」が狭かったことと関連しているように思う。
村八分にされた時点で社会的には死に等しいし、近所全員が顔見知りみたいな状態で法律に従ってバッサリ判決出してしまうと被告も原告も裁判官役の人も後味悪かったりしたのだと思う。
杓子定規な判決は出さず、情状酌量とか話し合いとか特例とかでこねくり回して上手いことやるのが古代エジプトの法概念なんだな…と思う。
昔で言う遠山の金さんみたいな人が出てきてもおかしくないw
ちなみに、このケンベト、存在が確認されるのは新王国時代からで、人口が増えて州の数も多くなり、中央法廷だけでは手が回らなくなったことと関連しているかもしれない。それ以前の法廷については資料はそれほど多くないが、メンフィスだけは古王国時代からずっと法廷があったらしいことは分かっている。古王国時代には「三十人法廷」という三十人の判事役が出てくる大法廷も開かれていたらしいが、専門の法律家がいないのだから、その三十人はどうやって、どんな職業からかき集めたのかは気になるところである。
重要な犯罪は、下エジプトならメンフィス、上エジプトならテーベにある大法廷(高等裁判所に匹敵)で裁くのが一般的だったようなのだが、それ以外は各自治体でのお裁きをやっていたのである。
だいたいの棲み分けは以下。
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●国家に対する犯罪
(農地や軍属からの)脱走、反逆、王への中傷、王族の墓荒らし、汚職
死罪になるような重罪はこちら
●個人に対する犯罪
殺人、傷害、強盗、窃盗、中傷
基本的に死罪は行わない
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このへんの資料は以下など。
Ancient Egyptian Legal System
https://www.crystalinks.com/egyptlegalsystem.html
Egypt's pharaohs delivered divine justice from beyond the grave
https://www.nationalgeographic.com/history/history-magazine/article/egyptian-pharaohs-laws-and-punishments
罰則はムチ打ち(というか棒で殴る)という、比較的平和であんまり手のかからないやつがよく知られている。なんかあんまり手のこんだ公開処刑みたいなのはしなかったらしい。
ただ、殺人も地方法廷で裁かれているので、殺人の場合はさすがにちょっと罪は重め(ムチ打ち回数が半死半生になるくらいまで多かった?)なのでは、とか、ムチ打ち+追放 くらいはあったのでは? という気はする。そのあたりは残っている判決事例で確認するしかないが、法律書のようなものはなかったため地方ごとにわりと基準はバラバラ。
面白いのは、法律書のような全国共通の基準はなく、専門の裁判官すらいなかったのに、司法制度自体はかなり作り込まれており、「村長がよしなに争いを収めること」のような結果部分に重きを置いていたこと。これはおそらく中世あたりの日本と似た感じで、古代エジプト人にとっての「世間」が狭かったことと関連しているように思う。
村八分にされた時点で社会的には死に等しいし、近所全員が顔見知りみたいな状態で法律に従ってバッサリ判決出してしまうと被告も原告も裁判官役の人も後味悪かったりしたのだと思う。
杓子定規な判決は出さず、情状酌量とか話し合いとか特例とかでこねくり回して上手いことやるのが古代エジプトの法概念なんだな…と思う。
昔で言う遠山の金さんみたいな人が出てきてもおかしくないw
ちなみに、このケンベト、存在が確認されるのは新王国時代からで、人口が増えて州の数も多くなり、中央法廷だけでは手が回らなくなったことと関連しているかもしれない。それ以前の法廷については資料はそれほど多くないが、メンフィスだけは古王国時代からずっと法廷があったらしいことは分かっている。古王国時代には「三十人法廷」という三十人の判事役が出てくる大法廷も開かれていたらしいが、専門の法律家がいないのだから、その三十人はどうやって、どんな職業からかき集めたのかは気になるところである。