ローマはやっぱり滅ぼしたい。

ローマが最も美しいのは、炎に包まれている時である(自分・談)

というわけで、中の人的にローマはどう滅ぼすかを考えるのが楽しい仮想敵国なので、滅ぼしたい目線で読んでいた。イタリア半島に位位置する都市国家に過ぎなかったローマが、いかにして地中海世界に広大な領域を持つ「帝国」になったのか、という歴史の、序盤部分のお話である。

ローマ帝国の誕生 (講談社現代新書) - 宮嵜麻子
ローマ帝国の誕生 (講談社現代新書) - 宮嵜麻子

ローマは元々が都市国家で、「属州」という外付けの領土パーツを追加していくことで国家領域を拡大させていく。最初は対等な関係として同盟都市国家ゃ属州を「友」と扱うが、強大な軍事力や権威を得るに従って「自分のほうが上」という立場に変わっていく。戦争を繰り返して支配領域を広げ、軍事力による圧で属州を支配するという帝国に変貌していくわけだ。その変貌によってローマが「帝国」と名乗れる状態になったのはいつなのか、というのが、この本の主題になっている。
見出しのつけかたや章の分け方がうまいので、このへんの流れはわかりやすくなっている。気になる人は本を手にとってみるといいと思う。

で、そのへんはおいといて、属州という概念はローマが最初なのか? という部分について考えてみたい。
というのは、古代エジプトも帝国と名乗れた時期があって、南のヌビア支配などはローマにおける属州支配と似ていると思ったからだ。しかし古代エジプト帝国では、支配する外部地域は「属国」「植民地」とは呼ばれるものの、「属州」とは呼ばれない。何が違うのか。それとも、呼び名が違うだけで実は似たようなものなのか。


古代エジプトが「帝国」と名乗れたのは、新王国時代の最盛期、第18王朝半ばから第19王朝のあたりだ。本体の王国に加えて、南のヌビアを植民地、東のシリア・パレスチナ方面の小国家群を属国としていた。
この時点でローマとの違いに気がついた。
エジプトは、ヌビアにも、小国家群にも、それぞれ現地代表者を認めている。つまり間接的な支配しかしていない。エジプトはヌビアにヌビア総督を置いてはいたが、現地の政治の全てを賄っていたわけではない。小国家群にも、
古代エジプト王国にとって、「エジプト(古代語ではケメト)」はあくまでナイル川の流れる領域であり、植民地や属国の領域は単に権力の及ぶ地域。エジプトそのものにはならなかったのだ。
ローマは、属州とし支配した地域を「ローマの一部」と見なしていたし、全部まとめてローマと呼んでいたから、概念が全然違う。
この時点で答えが出てしまったので、中の人の思考実験としては終了である。

ただ、これだけだとちょっとつまらないので、似ている部分と違う部分をもう少し見ておこう。

古代エジプト帝国では、ローマ帝国同様、本国に所属しない植民地/属国の住民を劣るものと見下していた部分がある。ただ、ローマのように、市民権を持ってる/持ってないの区別ははっきりしていない。大臣のような要職に上り詰めている異国人もいたし、ナイル川流域に住み着いている異国人はほとんど元からの住民と変わらない扱いを受けていたように見える。
おそらく、両者の「何を持ってエジプト人とするか」「何を持ってローマ人とするか」という基準が違うのだと思う。
ナイル川沿いに住んでナイルの水を飲む者がエジプト人、という概念と、ローマの市民権を持つ者がローマ人、という概念の違いのようなものだ。

また、ローマは属州を「ローマ化」させようとしていたが、エジプトはあまりエジプト化させようとはしていない。何か「勝手に染まれ」というノリである。そのためヌビアでは独自の言語や文字が残り、エジプトの文字を真似て作られたメロエ文字は未だに解読出来ていない。均一な文化への同調圧力が違う。広大な領土を帝国として安定的に支配するためには、価値観や文化が均一なほうが支配しやすいので、これはローマ側のほうがやってることは正解とも言える。
むしろエジプトは帝国支配をやる気があんまり無い感じなのだ。本体の国土が沙漠に囲まれた確固たる領域国家で、そこさえ保持できればあとはオマケなのであまりガツガツしていない。そこが、本体が都市国家なうえに軍事力が権威なので戦争し続けるしかないローマと、財力と文化的権威でやっていけたエジプトの違いなのかもしれないと思った。

結局、今回もローマの滅ぼし方は分からなかったが、それはそうとしてローマは焼かれるべきである。