古代エジプト、ナイル下流はある時点まで人口が少なかった? 洪水デバフの威力とは
まず、前提となる基礎知識について。
古代エジプトは、ナイル川の上流と下流をそれぞれ「上の国」「下の国」と呼んで行政区分されていた。それぞれ州わけされていて、「上の国」は22州。「下の国」は20州。宰相は「上の国」と「下の国」で一人ずつ。税収は各州で取りまとめたものを宰相がそれぞれ集めてお国に申告。これが中王国時代に完成されたツリー型の官僚制度になる。
分け方については、英語版Wikipediaが詳しいので特に付け足すことはない。ていうか区分の仕方もここで見れば分かると思う。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nome_(Egypt)

ただ、「下の国」の州については、実は最初から20州あったわけではない。中王国時代の最初のタイミングでは18州とされ、どこかのタイミングで増えている。
なんでかなーどこ増えたんだろうなあーと思って調べていたのだが、どうも、以下の3つの要素が大きそうである。
・ナイル川の運んだ土で、後世に土地が増えたところがある
・海沿いは湿原なので干拓するまで使えない(麦作出来ない)
・ナイルデルタ東部は第二中間期以降にアジア人の移民が流入し街が増えた

ナイル川下流の扇状地は、1万年前以降に海が後退して少しずつ出現してきた場所になる。この地図が分かりやすいが、古代エジプトの歴史の始まりの頃には、現在に比べて海岸線が引っ込んでいるところがある。そこにナイル川が沈殿物を運んできて、少しずつ土地が盛り上がっていき、可住地域・耕作地が増えていった。(「エジプトはナイルの賜物」とは、本来この意味。ナイルによって国土が増えたから)
つまり、第19州のあたりは、そもそも海の中で人が住めなかったのであとから追加された可能性がある。また、やけに細長い西側の第三州も、北半分くらいは元は海の中だ。アレキサンドリアが出来るのはプトレマイオス朝で、それまでは海の近くには目立つ集落は全く無かったようなので、元々はこの半分くらいの長さだったのではないかと思われる。そうしてみていくと、数が増えた以外にも、海沿いの州はおそらく「面積がだんだん増えて、北に伸びていった」のだろうな…という感じである。
なお、それとは別の理由で増えたと思われるのが、第20州。アヴァリス、と言えばピンとくる人がいるかもしれないが、ナイルデルタの東部は、中王国時代の終わりごろからアジア人の移民が大量に移住してきて、一気に人口が増えている。その人たちが独立した王国を名乗り、アヴァリスに首都を置いて周辺を支配し始めたのが第14、第15王朝。
この東部地方も新王国時代に再び制定されてエジプトの統一王国に組み込まれるのだが、増えた人口はそのままなので、州区分も増やしたのだと思う。ナイルデルタの西側に比べて東側のほうが一つの州の面積が狭いのは、人口が集中していたためだと思われる。
で、なんでそんなに移民が来たかって、そもそも人が少なかったので移民が入り込みやすかったのだが、新王国時代以前のナイルデルタは、そもそも全般的に人が少なかったと思われるのだ。
理由は、年一回のナイルの増水で水浸しになるからである。
住めるところが少ない & 畑が作れない。
なので、まともに集落が発展するのは、灌漑設備が整備され、川と耕作地がうまく隔てられるようになってからである。
そう、ここ、人の手を入れて国土開発するまでは住めなかったのだ…。ナイルデルタの湿地帯の元の姿は、北海道の湿原を思い出すと近いと思われる。ちなみに、エジプトさんがナイル上流にアスワン・ハイ・ダムを築くことを決断した理由の一つも、まさに、洪水デバフによって下流地域の開発が出来ないからでもあった。
川の水位がどのくらい上がるかが毎年違うんで、上がりすぎた年はすぐ水浸しになるとか、都市すら作れない。
数年前にちょうどスーダンで洪水が起きているのだが、数年おきにこのレベルのを食らっていたら、そりゃ人もなかなか住めないっすわ。
中王国時代以降は灌漑の技術も発達し、水路が整備されるようになるが、耕作地の面積が増え、人がまともに住めるようになるまで時間がかかってるのではないだろうか。のちにナイルデルタは一大穀倉地帯となるが、それまでに、国家主導の大規模な水利工事が必要だったと推測する。
ナイル川の洪水デバフは、おそらく、現代人が想像するよりずっと深刻。そして、古代人が見ていた風景は、今とは全く違うものだっただろうなと思うのだ。
古代エジプトは、ナイル川の上流と下流をそれぞれ「上の国」「下の国」と呼んで行政区分されていた。それぞれ州わけされていて、「上の国」は22州。「下の国」は20州。宰相は「上の国」と「下の国」で一人ずつ。税収は各州で取りまとめたものを宰相がそれぞれ集めてお国に申告。これが中王国時代に完成されたツリー型の官僚制度になる。
分け方については、英語版Wikipediaが詳しいので特に付け足すことはない。ていうか区分の仕方もここで見れば分かると思う。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nome_(Egypt)

ただ、「下の国」の州については、実は最初から20州あったわけではない。中王国時代の最初のタイミングでは18州とされ、どこかのタイミングで増えている。
なんでかなーどこ増えたんだろうなあーと思って調べていたのだが、どうも、以下の3つの要素が大きそうである。
・ナイル川の運んだ土で、後世に土地が増えたところがある
・海沿いは湿原なので干拓するまで使えない(麦作出来ない)
・ナイルデルタ東部は第二中間期以降にアジア人の移民が流入し街が増えた

ナイル川下流の扇状地は、1万年前以降に海が後退して少しずつ出現してきた場所になる。この地図が分かりやすいが、古代エジプトの歴史の始まりの頃には、現在に比べて海岸線が引っ込んでいるところがある。そこにナイル川が沈殿物を運んできて、少しずつ土地が盛り上がっていき、可住地域・耕作地が増えていった。(「エジプトはナイルの賜物」とは、本来この意味。ナイルによって国土が増えたから)
つまり、第19州のあたりは、そもそも海の中で人が住めなかったのであとから追加された可能性がある。また、やけに細長い西側の第三州も、北半分くらいは元は海の中だ。アレキサンドリアが出来るのはプトレマイオス朝で、それまでは海の近くには目立つ集落は全く無かったようなので、元々はこの半分くらいの長さだったのではないかと思われる。そうしてみていくと、数が増えた以外にも、海沿いの州はおそらく「面積がだんだん増えて、北に伸びていった」のだろうな…という感じである。
なお、それとは別の理由で増えたと思われるのが、第20州。アヴァリス、と言えばピンとくる人がいるかもしれないが、ナイルデルタの東部は、中王国時代の終わりごろからアジア人の移民が大量に移住してきて、一気に人口が増えている。その人たちが独立した王国を名乗り、アヴァリスに首都を置いて周辺を支配し始めたのが第14、第15王朝。
この東部地方も新王国時代に再び制定されてエジプトの統一王国に組み込まれるのだが、増えた人口はそのままなので、州区分も増やしたのだと思う。ナイルデルタの西側に比べて東側のほうが一つの州の面積が狭いのは、人口が集中していたためだと思われる。
で、なんでそんなに移民が来たかって、そもそも人が少なかったので移民が入り込みやすかったのだが、新王国時代以前のナイルデルタは、そもそも全般的に人が少なかったと思われるのだ。
理由は、年一回のナイルの増水で水浸しになるからである。
住めるところが少ない & 畑が作れない。
なので、まともに集落が発展するのは、灌漑設備が整備され、川と耕作地がうまく隔てられるようになってからである。
そう、ここ、人の手を入れて国土開発するまでは住めなかったのだ…。ナイルデルタの湿地帯の元の姿は、北海道の湿原を思い出すと近いと思われる。ちなみに、エジプトさんがナイル上流にアスワン・ハイ・ダムを築くことを決断した理由の一つも、まさに、洪水デバフによって下流地域の開発が出来ないからでもあった。
川の水位がどのくらい上がるかが毎年違うんで、上がりすぎた年はすぐ水浸しになるとか、都市すら作れない。
数年前にちょうどスーダンで洪水が起きているのだが、数年おきにこのレベルのを食らっていたら、そりゃ人もなかなか住めないっすわ。
中王国時代以降は灌漑の技術も発達し、水路が整備されるようになるが、耕作地の面積が増え、人がまともに住めるようになるまで時間がかかってるのではないだろうか。のちにナイルデルタは一大穀倉地帯となるが、それまでに、国家主導の大規模な水利工事が必要だったと推測する。
ナイル川の洪水デバフは、おそらく、現代人が想像するよりずっと深刻。そして、古代人が見ていた風景は、今とは全く違うものだっただろうなと思うのだ。