遺構のほとんど残っていない「太陽神の街」ヘリオポリス、古代の姿はどうだった?

ギリシャ語で「ヘリオポリス」、太陽神の街と呼ばれる場所は、古代名でイウン。古王国時代から太陽神ラーの本拠地として神殿が作られていた場所だ。だいたい現在のカイロ付近、と説明されることがあるのだが、実際にはカイロの街中には無い。というか、まず「ヘリオポリス」という言葉自体、街から離れた太陽神殿部分を現す言葉で、上流でいう「テーベ」の街に対する「カルナック」神殿のカルナックの部分に該当すると思われる。

で、神殿を構成していた石材は、後世にカイロの街が作られる時にほぼ持ち出されてしまって、今はオベリスク以外はなんも残っていない場所なので当時の姿を再現することはメンフィス以上に難しいのだが、19世紀まではギリで面影が残っていたらしく、その当時の地図でよさげなのを掘り起こしてきた。

Map_of_Cairo.png

◯つけた場所がヘリオポリス。
現在とかなり川の支流の位置が違うのだが、おそらく近代に護岸工事とかして位置が修正されている。
現代の地図をGoogleマップから引っ張ってきて見ると、どこが変わったのかがなんとなく分かる。

3u92t.png

ヘリオポリスの側を流れていたナイル川の支流は、まっすぐに修正されて位置も変わっている。上流にアスワン・ハイ・ダムが作られてナイルの毎年の増水が押さえられるようになると、下流地域の多くの支流が埋め立てられたり、護岸工事されたりして消滅、あるいは位置変更、川幅が大きく減って水路程度になってしまったりしている。

元々ナイルの増水は毎年8mとか水位が変わるレベルだったので、太陽神殿もあまり川に近い場所ではなかった。水没しない程度に川から離れていたはずなのだが、現在の水路の位置からはそのへんが伺えなくなっている。
また神殿の北にあったはずの湖も消滅している。

ただし、この辺りは古地図を見る限り湿地帯である。
現在でも、ヘリオポリス周辺はたびたび「地下水による」浸水被害を受けている貧困割合の多い地域で、ヘリオポリスの遺跡を掘った写真もだいたい地下水でドロドロになった状態のものが公開されている。埋め立てられても、「原初の水」の湧き出す場所は生きているのではないだろうか。
なので、古代においても、神殿の周囲には街は作れなかったと思う。

実際、古地図を見ると分かるとおり、神殿とカイロの街がかなり離れている。これは古代もそうだったと思う。
神殿だけ離れているのは、ここじゃないと太陽の光が受けられないからだ。地図でJebel-xxと書かれている場所はぜんぶ岩山。"ジェベル・バルカル"のジェベルと同じ意味なので、丘陵地帯を意味すると思って欲しい。現在のカイロ国際空港があるのも丘の上だ。

この丘に邪魔されて日の出が見える時間が遅れるのでは太陽神殿の意味がないので、丘が途切れる場所に神殿作ったんだと思う。で、街は湿地帯を避けて南のほう、丘陵の間に広がっている。大きな港などがあったのは、現在のオールド・カイロ周辺、古来からの市街地のあたりではないかとされている。
隣に書かれているBabylonの文字は後世にバビロン要塞と呼ばれた軍事施設で、古代の防衛機構もこの辺りだったと考えられている。

古代から何度も街が作り変えられ、人が住み続けてきた場所なので、以降は殆ど残っていない。石材も再利用されまくってて、道沿いの壁に何気なく使われていたりするくらい。ただ、「地盤」「丘陵」「水の流れ」など大まかな地理的な条件は紀元前2,000年も西暦2,000年も変わっていないはずなので、それらに合わせた大まかな位置取りも間違ってはいないと思う。

あとの細かいところは想像ですよ、想像…。