ピラミッド近くにナイルの支流の痕跡を発見、気候変動とピラミッド建設場所の関係が面白い
リシュトからギザに至る、ピラミッドがたくさん建てられている地域に、今は消えてしまったナイルの支流が流れていた、という研究が出ていた。
ナイルに「今は消えてしまった」支流が沢山あったことは知られているし、ナイル川の位置が時代ごとに変化していたことは知られている。というか、大河が何千年も変化せずに流れることはあり得ない。これは日本の身近な川の変遷を追うだけでも分かると思う。
なので、支流の痕跡が実際に見つかったことよりは、手法と、その資料の意味していた風景の部分が面白いと思うのだ。
元の論文>
The Egyptian pyramid chain was built along the now abandoned Ahramat Nile Branch
https://www.nature.com/articles/s43247-024-01379-7
日本語で概要だけ読みたい人は、このへんとか
ピラミッド建設の謎解く鍵か、ナイル川支流の存在が明らかに 新研究
https://www.cnn.co.jp/fringe/35219062.html
ピラミッド建設に使われた「失われたナイル川の支流」の証拠が見つかる
https://gigazine.net/news/20240517-long-lost-branch-of-the-nile/
ナショジオは記事レベルが最近とみに劣化していてタイトルの時点でイラっとしたのでURL貼りません。
そういうとこやぞ…そういうとこやぞ…。
今回見つかった支流は、アフラマト支流(Ahramat Branch)という名前をつけられている。これは古代のものではなく現代人のつけた名前。
下記の右上のb図を見てほしいのだが、これが1911年の地図。つまり20世紀初頭までは、「バフル・エル・リベイニ」、つまり「リベイニ運河」という名前で支流の一部が残っていたらしい。
周囲には、メンフィスの遺跡の北側に干潟みたいなものが幾つか見えるが、これらが古代の河川の痕跡だったというわけだ。だが、それも今は、干上がるか埋め立てられるかして、痕跡はない。
ちょうど、少し前にヘリオポリスの元の姿を調べるために19世紀の地図を探したことがあったのだが、この地図にもナイルと並行して流れる運河は描かれているんだよね…。
遺構のほとんど残っていない「太陽神の街」ヘリオポリス、古代の姿はどうだった?
https://55096962.seesaa.net/article/503296306.html
運河よりさらに西側に、古代の支流があったということだろう。
で、忘れちゃいけないのが、ナイル川は季節によって水位を変える。
つまり論文内で「川幅が最大400m」とか言っているのは、天然灌漑できる範囲のことで、最も水位の高い時期の氾濫原を含むと思ったほうがいい。というか多分、支流とナイル本流の間は、ほぼ湿原になってたんだと思うぞ…元は…。
古地図に残る池の分布具合からして、1960年代にアスワン・ハイ・ダムが出来るまでは、この氾濫原がぜんぶ水に沈んでいたんだと思う。
今は川からはるかに離れたところにあるギザのピラミッドも、当時は目の前に川の支流が流れていて、河岸神殿はその川のほとりに作られていただろうという。
ほとりと言っても、もちろん、川の氾濫する時期に神殿が水没したらマズいので、水位の高い時期でも沈まない程度の近さで。
で、「ピラミッド建設の謎を解くカギ!」とか言われているのは、時代ごとにピラミッドの作られている位置が変化しているのは、川の支流の移動を追いかけていったからではないかという説が出されているところだ。
以下の図は時代ごとのピラミッドの建造場所。赤が古王国時代、緑が第一中間期、青が中王国時代。
赤の、より古い時代のピラミッドほど、やけに奥地に作られている。
以前は、「高いとこに作ったほうがカッコいいじゃん」「古い時代から順番に、いい場所にピラミッド作っていったんだろうな…」という感じで考えていたのだが、この論文を読むと、どうもそうではない。古王国時代には支流の位置が西の崖に迫る場所だったので、その時代のピラミッドは高いところに作らなければならなかったのでは、という。
時代が進むと、支流の位置が東へ移動していくので、あとの時代のピラミッドはもう少し標高の低い東よりに作られるようになった。
今回の話題になっているアフラマト支流は、古王国時代の初期、特に第4王朝時代に水位が高く、その後、気候変動によって水位が低下していったと考えられている。第6王朝の時期に少し水位が上昇したあとは、より低く、わずかに東へ移動していたはずだという。
なので、時代を追うごとにピラミッドの作られるエリアが低地へ、東へと移動していったのでは。と。
これは、なかなか面白い説。
特に屈折ピラミッドや赤ピラミッドなど、最初期のピラミッドがやたら奥地に作られており、「こんなとこまで石運ぶの大変だったやろなぁ」な感じだったのが、実際には、そのピラミッドが作られていた時期には、目の前の谷まで水が来ていただろうという。
実際にピラミッドの中入ったことあるけど、入口(地面からはかなり高い)に立って見渡すと砂漠しかなくてめっちゃ僻地だったんだよな…。
川からえっらい離れたとこにポツンとと河岸神殿があって、わざわざ水路作ってたんかなと思ってたんだが、元は川の支流が近くまで来てたんなら納得できる。なんかヘンピなところにある河岸神殿は、川の流れの変化で取り残されたやつだったわけだ。
川の支流を発見した話より、数千年の間の気候変動で支流がどう変化していったかの話のほうが面白いよこの論文。
なお、古王国時代には水位が高く幅広、第一中間期は頻繁に反乱を起こし、第二中間期には水位が減りながら東に移動し続け、新王国時代には埋もれて、水をほとんどを失っていた、という。
古代エジプト史の中でも、この付近の風景は、かなり変わっていたということだ。まあ古王国時代から新王国時代までだと、1000年以上違いますからね…。
川の支流の位置と水位の変化がある程度わかったことで、支流に沿って移動する集落の遺跡も見つけやすくなったし、メンフィスの街の位置が時代ごとに変化してる理由とか、移動元の位置の推定とかも出来るようになったかな。
それと、この論文で抜けてそうだなと思ったのは、本流と支流を結ぶ人工の運河だ。
上流に川の本流と繋がるところがあるにしろ、いちいちそこまで移動するのは面倒くさい。ので、ギザ台地の東側とかメンフィス近郊のあたりには、本流と支流結ぶ運河があったはずだと思う。対岸から運んできた石材を、そこから支流まで運搬するための。
たぶん図の都合上描いてないだけだろうなと思ったが、この天然の支流に、人工の水路も付随していただろう、という想像はしておいてもいいかもしれない。
★あと、おまけ
ギザ台地前には「クフ王の支流」という水路もあっただろうとされている。これも地図では省略されている。
大ピラミッド建造時代のナイル支流の状況確認。「クフ王の支流」
https://55096962.seesaa.net/article/491269982.html
ナイルに「今は消えてしまった」支流が沢山あったことは知られているし、ナイル川の位置が時代ごとに変化していたことは知られている。というか、大河が何千年も変化せずに流れることはあり得ない。これは日本の身近な川の変遷を追うだけでも分かると思う。
なので、支流の痕跡が実際に見つかったことよりは、手法と、その資料の意味していた風景の部分が面白いと思うのだ。
元の論文>
The Egyptian pyramid chain was built along the now abandoned Ahramat Nile Branch
https://www.nature.com/articles/s43247-024-01379-7
日本語で概要だけ読みたい人は、このへんとか
ピラミッド建設の謎解く鍵か、ナイル川支流の存在が明らかに 新研究
https://www.cnn.co.jp/fringe/35219062.html
ピラミッド建設に使われた「失われたナイル川の支流」の証拠が見つかる
https://gigazine.net/news/20240517-long-lost-branch-of-the-nile/
ナショジオは記事レベルが最近とみに劣化していてタイトルの時点でイラっとしたのでURL貼りません。
そういうとこやぞ…そういうとこやぞ…。
今回見つかった支流は、アフラマト支流(Ahramat Branch)という名前をつけられている。これは古代のものではなく現代人のつけた名前。
下記の右上のb図を見てほしいのだが、これが1911年の地図。つまり20世紀初頭までは、「バフル・エル・リベイニ」、つまり「リベイニ運河」という名前で支流の一部が残っていたらしい。
周囲には、メンフィスの遺跡の北側に干潟みたいなものが幾つか見えるが、これらが古代の河川の痕跡だったというわけだ。だが、それも今は、干上がるか埋め立てられるかして、痕跡はない。
ちょうど、少し前にヘリオポリスの元の姿を調べるために19世紀の地図を探したことがあったのだが、この地図にもナイルと並行して流れる運河は描かれているんだよね…。
遺構のほとんど残っていない「太陽神の街」ヘリオポリス、古代の姿はどうだった?
https://55096962.seesaa.net/article/503296306.html
運河よりさらに西側に、古代の支流があったということだろう。
で、忘れちゃいけないのが、ナイル川は季節によって水位を変える。
つまり論文内で「川幅が最大400m」とか言っているのは、天然灌漑できる範囲のことで、最も水位の高い時期の氾濫原を含むと思ったほうがいい。というか多分、支流とナイル本流の間は、ほぼ湿原になってたんだと思うぞ…元は…。
古地図に残る池の分布具合からして、1960年代にアスワン・ハイ・ダムが出来るまでは、この氾濫原がぜんぶ水に沈んでいたんだと思う。
今は川からはるかに離れたところにあるギザのピラミッドも、当時は目の前に川の支流が流れていて、河岸神殿はその川のほとりに作られていただろうという。
ほとりと言っても、もちろん、川の氾濫する時期に神殿が水没したらマズいので、水位の高い時期でも沈まない程度の近さで。
で、「ピラミッド建設の謎を解くカギ!」とか言われているのは、時代ごとにピラミッドの作られている位置が変化しているのは、川の支流の移動を追いかけていったからではないかという説が出されているところだ。
以下の図は時代ごとのピラミッドの建造場所。赤が古王国時代、緑が第一中間期、青が中王国時代。
赤の、より古い時代のピラミッドほど、やけに奥地に作られている。
以前は、「高いとこに作ったほうがカッコいいじゃん」「古い時代から順番に、いい場所にピラミッド作っていったんだろうな…」という感じで考えていたのだが、この論文を読むと、どうもそうではない。古王国時代には支流の位置が西の崖に迫る場所だったので、その時代のピラミッドは高いところに作らなければならなかったのでは、という。
時代が進むと、支流の位置が東へ移動していくので、あとの時代のピラミッドはもう少し標高の低い東よりに作られるようになった。
今回の話題になっているアフラマト支流は、古王国時代の初期、特に第4王朝時代に水位が高く、その後、気候変動によって水位が低下していったと考えられている。第6王朝の時期に少し水位が上昇したあとは、より低く、わずかに東へ移動していたはずだという。
なので、時代を追うごとにピラミッドの作られるエリアが低地へ、東へと移動していったのでは。と。
これは、なかなか面白い説。
特に屈折ピラミッドや赤ピラミッドなど、最初期のピラミッドがやたら奥地に作られており、「こんなとこまで石運ぶの大変だったやろなぁ」な感じだったのが、実際には、そのピラミッドが作られていた時期には、目の前の谷まで水が来ていただろうという。
実際にピラミッドの中入ったことあるけど、入口(地面からはかなり高い)に立って見渡すと砂漠しかなくてめっちゃ僻地だったんだよな…。
川からえっらい離れたとこにポツンとと河岸神殿があって、わざわざ水路作ってたんかなと思ってたんだが、元は川の支流が近くまで来てたんなら納得できる。なんかヘンピなところにある河岸神殿は、川の流れの変化で取り残されたやつだったわけだ。
川の支流を発見した話より、数千年の間の気候変動で支流がどう変化していったかの話のほうが面白いよこの論文。
なお、古王国時代には水位が高く幅広、第一中間期は頻繁に反乱を起こし、第二中間期には水位が減りながら東に移動し続け、新王国時代には埋もれて、水をほとんどを失っていた、という。
古代エジプト史の中でも、この付近の風景は、かなり変わっていたということだ。まあ古王国時代から新王国時代までだと、1000年以上違いますからね…。
川の支流の位置と水位の変化がある程度わかったことで、支流に沿って移動する集落の遺跡も見つけやすくなったし、メンフィスの街の位置が時代ごとに変化してる理由とか、移動元の位置の推定とかも出来るようになったかな。
それと、この論文で抜けてそうだなと思ったのは、本流と支流を結ぶ人工の運河だ。
上流に川の本流と繋がるところがあるにしろ、いちいちそこまで移動するのは面倒くさい。ので、ギザ台地の東側とかメンフィス近郊のあたりには、本流と支流結ぶ運河があったはずだと思う。対岸から運んできた石材を、そこから支流まで運搬するための。
たぶん図の都合上描いてないだけだろうなと思ったが、この天然の支流に、人工の水路も付随していただろう、という想像はしておいてもいいかもしれない。
★あと、おまけ
ギザ台地前には「クフ王の支流」という水路もあっただろうとされている。これも地図では省略されている。
大ピラミッド建造時代のナイル支流の状況確認。「クフ王の支流」
https://55096962.seesaa.net/article/491269982.html