ローマ支配時代エジプトのファイユームの集落「カラニス」の放棄年代に関する新説

カラニスとは、ギリシャ人が入植したエジプトの中部、ファイユーム地方の都市。大きな湖(今はかなり縮小している)のほとりに作られていた集落である。
場所はココ。
ファイユーム地方はギリシャ人がたくさん入植していて、その中でも異国ルーツの人たちが多かった街だが、今では砂に埋れた遺跡と化している。
で、5世紀くらいに放棄されたというのが今までの説なのだけれど、遺跡から発掘された植物類の年代を測定してみたら、7世紀中頃までは散発的に人が暮らしていたらしいことがわかってきた、という話である。

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Re-dating Roman Karanis, Egypt: radiocarbon evidence for prolonged occupation until the seventh century AD
https://www.cambridge.org/core/journals/antiquity/article/redating-roman-karanis-egypt-radiocarbon-evidence-for-prolonged-occupation-until-the-seventh-century-ad/8B7862425ABA359FA9BA56CBBF3FD0FF

この論文はタイトルに主要な内容を全部書いてくれてるので分かりやすい。
紀元後170年ごろ、ローマ支配時代には都市だった場所が、その後は衰退して完全に消え失せてしまうのはいつなのかを、放射性炭素年代測定で調べたのだ。

サンプルは、遺跡の中の邸宅から回収された穀物類など。エジプトは乾燥した気候なのと、カラニスは川の氾濫によって影響を受けにくい湿地帯のいちばん端の集落なので、種などの残りがかなり良かったらしい。

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人が住み続けていれば、古い痕跡はどんどん上書きされていく。部屋に何か落ちてたら掃除するだろうし、床や壁も作り直したり塗り直したりするだろう。なので、残っている最後の痕跡が、そこに人の住んでいた最も新しい時代を指していることになる。
結果として、最後は7世紀なかばという数値が出た。

これまでの先行研究から、カラニスは3世紀以降に急激に人口が減り続け、5世紀なかばにはほぼ人が消えていたとされている。
指標としていたのはパピルス文書やコインの出土状況であり、陶器のような日用品、あるいは、今回使われた穀物のような出土品は年代特定に繋がらないとして無視されてきたという。

しかし、都市が村になっただけでまだ人が残っていた状態なら、パピルスやコインの出土がなくなっても、集落としては「放棄された状態にはなっていない」。本当に人が消えた時期は、今までの方法だと見えなかったのだ。
おそらく、3世紀以降に人が減り、5世紀なかばにはほとんど経済活動が見えなくなっていたという先行研究も正しい。限界集落のまま、百年か二百年はほそぼそと延命されていた、という話なのだろう。

また、今回の結果だけだと、カラニスが放棄に至った理由については分からないという。
3世紀にナイルの水位低下によってファイユームで生活用水の不足が発生した可能性もあるし、逆に、以上に水位が上がる都市が続いて住民が高台に避難した可能性もあるという。
また、サーサーン朝やビザンツ、イスラーム勃興などの政治的・社会的な出来事が影響しているという説もある。実際は、それらの複合要因だったかもしれない。

いずれにしろ、カラニスは7世紀なかばには姿を消し、その後は砂に埋もれてしまった。
そして千年以上も経ったあと、その集落から掘り出された多数のパピルス文書が、かつての栄光に光を当てることになるのである。