本を積むことが理解できない。積み本のない我が家

定期的にいろんなジャンルの本を読まないと衰弱して死ぬ呪いにかけられている中の人です。解呪不可。

けっこう本買ってるよね? とか言われるけど、うちには積み本というものはない。まとめて買ったやつ順番に読んでいく間だけ積まれていることはあるが、長くてせいぜい一ヶ月。それ以上積むくらいなら買う本を絞るし、そもそも手つかずの本が積まれていることに我慢が出来ないのである。

そう、私は「積読」勢とは全く話が合わない。
基本的に、本は読んでこそ意味があると思っているからである。


専門書なら、欲しかった知識がその中にあるかもしれない。小説なら、ものすごく面白いという体験ができるかもしれない。新書とかなら、自分に今までななかった視点に気付かされるかも知れない。
その可能性がありながら、目の前にあって開けば手に入るものがあるかもしれないのに、読まずに表紙見てるだけ? えっ、そんなの我慢できるわけないじゃないですか。中に何があるか一通りは読むでしょ。二ヶ月後に読んでみて「やべえ、こんな面白かったのか」って気づくのとか悔しいじゃないですか。
むしろ何で積読勢は積むだけで満足できるんだ。読まずに我慢できるからじゃなくて、別にそこまで読みたいと思ってないからでは? つまり読まずにいられない病気とは無縁の、ただ所有欲があるだけの一般人では…?


それと、手にいれた本は、早めに読まないと、手に入れた時点と「自分が」変わってしまう可能性がある。

本の中の情報は一定だ。十年後も二十年後も変わらない。
しかし、読む人のコンディションは日々変わっていく。十年前に面白かった本が今は古臭くてとても読めなくなっていたり、逆に十年前は以前分からなかった意味に気づいてアハ体験が出来たりもする。
本の内容は、読み手と共鳴して意味を変えていく。今日の自分と明日の自分は微妙に違う。早く読んでおかないと、未来の自分は、本を手に取った時点とは異なる感覚の持ち主になっているかもしれない。時事ネタ関連の本とかは特にそう。

また、根本的な処として、本とは、消耗品である。
本は読まないと価値がないと言ったが、本は読み返せば読み返すほどボロボロになっていく。うちには、背表紙の取れかけたような本もたくさんある。将来古本屋に売るとかも難しいだろう。私が死ねば一緒に役目を終える本たちである。

なので、図書館を巨大な書庫だと思っている人とも意見が合わない。
本は読まれてナンボである。読まれれば読まれるほどボロボロになっていくので、当然、定期的に捨てて新しい本に入れ替える作業が発生する。図書館のような公共の書庫は、新陳代謝されることが使われている証拠になる。
倉庫なのだから本は保管されているべきだと思っている人は、そういう時に必ず「図書館の本を捨てるな!」と騒ぐのだが、これは間違っている。自分の気に入っている本は、自分の家に囲っておけばいい話で、図書館の本はどんどん入れ替わっていってほしい。でなければ、図書館ヘビーユーザーの私などは、いつかそこにある本を読み尽くしてしまって新しい本を借りられなくなる。

図書館を巨大な積読だと思っている人とも意見が合わないということだ。


これは、結局は、本を読むという行為に意味を持つか、本を所有するということに価値を置くかの違いだと思う。
私は所有に価値は置かない。読んだかどうか、つまり中身を一度は自分の頭の中に入れたかどうかが重要なのであって、持ってる/持ってない、すぐにアクセスできる/できないは、それほど重要ではない。
積まれた本はただの紙屑だ。明日がどうなるかも分からない中で、読みたいと思って手に取った本が目の前にありながら、読まずに死ぬことが恐ろしくはないのか。自分ならとりあえず読むね。朝の30分でも。一回さらっと読んどいて、もうちょっと理解したかったら二回目読めばいいだけ。他のことやって読書を後回しにするくらいなら、他の何かを犠牲にしても読書の時間を作る。

で、その時間も無いのなら、そもそも本屋にも図書館にも行かないのだ。行って本を手に取ったら、どうせ我慢できなくなるに決まっているので。

積む、という選択肢の無い人間の思考は、こんな感じです。