人文学者はなぜ著書で愚痴るのか。インド研究の世界と「アーリヤ人の誕生」

最近のインドの話題では、「ヒンドゥー・ナショナリズム」というキーワードが良く出てくる。
まあ意味はググるなり何なりしてもらえばいいのだが、簡単に言うとヒンドゥー教原理主義であり、インド版アーリア人至上主義である。分かりやすい側面としては、イスラム教徒の弾圧・追放。中国でいう中華思想に近いかもしれない。

多文化・多言語の国がひとつにまとまるためには、何か、そのために掲げるお題目が必要なわけだが、インドは宗教を掲げているわけだ。
で、それについての本が最近出たので、ちょっと読んでいた。
これはこれで、時事ネタの解説本としては面白かったので、興味のある人はぜひ。

「モディ化」するインド―大国幻想が生み出した権威主義 (中公選書) - 湊一樹
「モディ化」するインド―大国幻想が生み出した権威主義 (中公選書) - 湊一樹

で、その流れから、同じく「ヒンドゥー・ナショナリズム」の歴史について書かれた本を手にとった。
最近文庫化されて復刊したらしい「アーリヤ人の誕生」という本。これは言語学の視点から書かれたものになる。「アーリア」ではなく「アーリヤ」となっていることに注意。

アーリヤ人の誕生 新インド学入門 (講談社学術文庫) - 長田俊樹
アーリヤ人の誕生 新インド学入門 (講談社学術文庫) - 長田俊樹

前提知識として、インドの言語の一つサンスクリット語と、ヨーロッパで広く使われる英語やスベイン語、ドイツ語などの言語の大元は、一つの言語だったとされている。
「インド・ヨーロッパ語族」という言葉があるが、その祖先となる言語ということで、印欧祖語と呼ばれることもある。
「アーリア人」はその中のどこから出てきたか、というのが下の図。この本は研究の歴史の本なので、まず、印欧祖語という概念がどこから生まれてきたか、アーリア/アーリヤという命名をいつ誰がしたのか、それがヨーロッパの研究史の中でどのような位置づけだったのか…という話が続いていく。

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とはいえ、周知のとおり、インドが多文化・多言語・多民族の国であることや、面積がデカいこと、人口が多いことくらいは、普通は知っている。一般常識の一つだからだ。たとえ遠い国だろうと、ニュースでの報道が少なかろうと、大多数が了解している。
インドの言語はサンスクリット語だけではないし、そもそも印欧祖語から繋がらない、全く別系統の言語もある。

中の人の職場にも、何人もインド人がいる。北部出身者と南部出身者は同じインド人でも言葉が全く通じず、日本語か英語でやりとりしている、なんていう光景も見てきた。

ただ、「アーリア人」がインドに侵入したわけではないこと、インダス文明がアーリア人によって滅ぼされたとする説がもう古いことなどは、まだあまり知られていないかもしれない。大挙して人が移住してきた痕跡がないことからアーリア人の侵入説は否定されているわけだが、少数移住してきて現地の支配階級になったりした場合は、人種は入れ替わらなくても言語が入れかわる/優位になる可能性はある。
アナトリアにおけるヒッタイト語の台頭や、現在のブリテン島で英語が主流なのは、そういうことである。

また言語の関係から、アーリア人=ヨーロッパ的な顔立ちの人、と想像している人もまだ多いかもしれない。そもそも隣接する地域の住民でそれほど外見的に違っていたのかも不明なため、印欧祖語を話していた人の外見は分からない。しかも、最近のポリコレ風潮の中では、アーリア人の鼻筋はインド土着民より通っていたかもしれない、なんて言うだけで火炙りである。このへんの知識はアップデートしておくのが無難だろう。

で、肝心のヒンドゥー・ナショナリズムの部分についてだが、これはインドのヒンドゥー・ナショナリストが、サンスクリット語で書かれたリグ・ヴェーダという神話を至高のものとしていることと関係している。
サンスクリット語の祖先である言語がよそから来たものであるはずがない、印欧祖語とはサンスクリット語の祖語で、インドから西洋に拡散していったのだ、という考え方。支配階級の祖先、および国の誇る古代の書き物が、外来のものであるはずがない。という点に拠る。

この考え方はインダス文明にも適用され、インドの文献をあさると、大真面目に「インダス文明はサンスクリット語として読むことができる」などと書いてあるものに当たって、天を振り仰ぐこともある。ぶっちゃけ最近のインドの人文学者の世界はナショナリズムに汚染されすぎていて、全然資料として使えない。そもそも隣のパキスタンと仲が悪くて協力しようともしない時点で外国人研究者の資料のほうが圧倒的に使える。
この本には、そのへんの事情も出てきて、まあそうだろうなと思いながら読んでいた。



というわけで、内容自体に難しいところはなく、あまり真新しいところもないなと思っていたのだが、巻末に、文庫化されるに当たって追加された部分がある。補章と文庫化の際のあとがき。ここがぶっちゃけ一番おもしろかった。おもしろかったというか、笑っちゃいけないんだろうけど笑ってしまった。

人文学者は、なぜ、同じような愚痴をあとがきに書きたがるのか。


所属していた学会での扱いとか、大御所の老害化した先生への文句とか、研究費を得られない愚痴とか、人文系学者の業界に対する危機感とか、もう何冊もの本でほぼほぼ同じ内容の「あとがき」を見てきた。海外で活躍している優秀な先生ですら書いてた。

出版物でオープンレターごっこをしてはいけない。

少し前にSNSでオープンレター騒動というものがあった。大御所先生が別の先生を隠れてくさして、それが身内に暴露されて泥沼の誹謗中傷合戦をやっていたやつである。その時に生まれた言葉が「人糞学者」であり、人文学者を揶揄する単語である。下品で全く面白みもない言葉だなとは思っていたが、仮にも学者を名乗る者が、しょーもない悪口合戦を人前で晒して恥とも思わなかった点はバカにしたくなる気持ちもわかる。

それで「文系はないがしろにされている」とか「研究に予算がつかない」とか「学会の危機」とか言われましても…w 正直「もっと数減らしたほうがよくね? この人たちが何かの役に立つの??」って言われても仕方ない。
外野の人々は、というか自分も、だいぶ冷めた目であの騒動を眺めていた。

巻末の、学会内での反応とか、乾杯の嫌味の下りとかは、このオープンレター騒動とレベル一緒。身内で完結しててくれ。



余談だが、中の人はIT業界にいる。
この業界の人間は、著書の巻末で愚痴ることはめったにない。
自分の専門分野、たとえばAIについて、世間で誤解されていると思った時、そのことを巻末で愚痴る奴はいない。周知するのは自分だからであり、知らしめるために本を書くからである。端的に言えば、愚痴るヒマがあったら動けよ、という世界。

そして、世間一般の全ての人に理解される必要がないとも思っている。
世の中の人が、特に仕組を気にせず、細かいことを考えずにルールに従うよう「世界を作り変える」のは、技術者の仕事だからである。一昔前にはPCにLANカード刺して、モジュラケーブル引っ張ってダイヤルアップしないと繋がらなかったインターネットは、今、お手持ちのスマホを起動するだけで、いつでも、だいたいどこでも接続できる。なので、「世の中に知られていない」などと嘆くことも、あまり無い。(個別の顧客や発注元の無知に嘆くことはあるが、それは本のあとがきに書くようなことではない)

ワンオペの社内情シスをやらされている人が、予算がつかないとか人手が足りないと愚痴ることはある。
しかし愚痴っているうちはまだまだであり、上司に掛け合って予算を増やしてもらうなり、新しく人を雇う算段をしたり、自分でツールを作ったりして現状を打開していく力は求められる。楽をするために苦労するのがシステム屋という職業である。このままの予算では社内システムの保全が十分でなく、老朽化したシステムがぶっ壊れたら損害が出ると知っていながら黙っている者は存在する意味がない。その現状を分析し、しかるべき偉い人に警告するのが本来の仕事である。
本を書くような人なら、このレベルは既にクリアしているはずなので、自分の無能をさらけだすような愚痴は書く必要がない。

というわけで、本の本体は面白かったのだが、あとがきの内容は、老害になりかけてる感じがしていただけなかった。

なんか、人文学者って、身内で足引っ張り合うことと顔色伺うことに力裂きすぎて、現実を変えようとする力が弱いなと感じることが多い。
気に入らない現実なら、どうすればいいか考えて行動することが後輩たちのためになるのでは。
ていうか、それをやらないと、誰も同じ学究の道を選んでくれなくなって、予算とか学会とか環境うんぬんの前に、後継者がいなくなってジャンルとして終わると思います。