ギリシャ語文献にヒッタイトが残らなかったもう一つの理由は「接触時期が短い」か?
ヒッタイトは、ほんの1世紀前に再発見された新しい文明である。大国としてエジプトと渡り合った時代がありながら忘れ去られ、その首都の場所やかつての王たちの名前も埋もれたままになっていた。
原因の一つは、ギリシャ語記録に全く残っていなかったからだ。以前、年表を書いて考えてみたが、クレタ島の文明崩壊後、文字を失ってしまったギリシャ系の民族は、ギリシャ文字を獲得するまでの間に忘れてしまったのだと思う。
だが逆に、ヒッタイトは文字を持っており、ヒッタイト側の書いたギリシャに関する記録は残っている。
反対意見もあるが、ヒッタイトが「アッヒヤワ」と書いている国/民族がおそらくアカイア人のことで、トロイアではないかとされるヒサルルクを含むエーゲ海沿岸の島嶼部に住み着いていた可能性がある。
ヒッタイト側の記録を信じるならば、ヒッタイトはアッヒヤワ(の勢力圏の一部)を植民地扱いにしていた時代があることになり、ますますギリシャ側に記録が残らなかったのが謎になる。だが、地図と年表を眺めていたら、ふと気がついた。
もしかして、直接接触があったのはヒッタイト帝国最盛期の150年くらいの短い間なのでは?
そして、アッヒヤワ/アカイア人は沿岸部にしか展開しておらず、基本的に内陸国であるヒッタイトのことをあまり良く知らなかったのでは…?
●年表
以下を参照。
ヒッタイトがライバルのアルザワを押しやってエーゲ海沿岸まで勢力を伸ばすのは、紀元前1350年くらいのことである。んで紀元前1200年頃には崩壊してしまうので、直接接触してた期間が短くて印象薄かったのでは…と思った次第。
https://55096962.seesaa.net/article/503761305.html
●地図
「アッヒヤワ」の勢力圏に隣接して、「アルザワ」というこれまた似たような名前の国/勢力が存在した。
両者は全然別もので無関係なのだが、分かりづらいと思うので、ちょっと整理メモを残して
簡単に説明すると、「アルザワ」はヒッタイト人が来るのより前から暮らしていたルウィ語民族と考えられており、アナトリアの西の海沿いにあった国/集団名である。一つの大国というよりは、いくつかの関連する勢力の連合で、エジプトと同盟ししていた時期もある。ヒッタイト全盛期にはアルザワは駆逐され、ルウィ語圏もほぼ消滅。エジプトとヒッタイトが大戦争やって和平するのはそのあとのことだ。
「アッヒヤワ」は先に述べたようにアカイア人のことで、アッヒヤワが住み着いていたと考えられる島嶼・沿岸部とヒッタイトの間にアルザワ勢力圏が挟まっている。
つまり、アカイア人≒アッヒヤワとヒッタイトが直接接触出来たのは、ヒッタイトがアルザワを追いやってアナトリア西岸まで進出していた時期に限られる可能性がある。
ヒッタイト側は文字があったのでこの時のことを記録できたが、文字がなかったアッヒヤワはそれを記録するすべを持たず、印象としてもそこまで大きくなかったかもしれない。
で、口伝として残ったのは一部の戦争の記憶くらいで、結果的にギリシャ側での記録が消えてしまったのじゃないかなあ…という感じ。
というか、そもそもアッヒヤワの人々は、アナトリア沿岸部までしか進出しておらず、おそらく内陸の情報はあまり持っていなかった。
つまりヒッタイトという勢力のことは、「なんかアナトリアにでかい国があるらしい」くらいの認識だったか、アルザワとの区別がイマイチついていなかったとか、そういう話なのかもしれない。
少数の交易商や遠征隊だけがアナトリアと行き来としていたなら、そんなもんかもしれないなあ…と…。
なんか、だんだん謎の答えが見えてきた感じがして嬉しい。いいぞ、これが楽しいんだ。
10年越しの疑問がまた一つ片付いた。一つ片付くと二つ疑問が出てるような気もするけど、前には進んでるからまぁいいか。
原因の一つは、ギリシャ語記録に全く残っていなかったからだ。以前、年表を書いて考えてみたが、クレタ島の文明崩壊後、文字を失ってしまったギリシャ系の民族は、ギリシャ文字を獲得するまでの間に忘れてしまったのだと思う。
だが逆に、ヒッタイトは文字を持っており、ヒッタイト側の書いたギリシャに関する記録は残っている。
反対意見もあるが、ヒッタイトが「アッヒヤワ」と書いている国/民族がおそらくアカイア人のことで、トロイアではないかとされるヒサルルクを含むエーゲ海沿岸の島嶼部に住み着いていた可能性がある。
ヒッタイト側の記録を信じるならば、ヒッタイトはアッヒヤワ(の勢力圏の一部)を植民地扱いにしていた時代があることになり、ますますギリシャ側に記録が残らなかったのが謎になる。だが、地図と年表を眺めていたら、ふと気がついた。
もしかして、直接接触があったのはヒッタイト帝国最盛期の150年くらいの短い間なのでは?
そして、アッヒヤワ/アカイア人は沿岸部にしか展開しておらず、基本的に内陸国であるヒッタイトのことをあまり良く知らなかったのでは…?
●年表
以下を参照。
ヒッタイトがライバルのアルザワを押しやってエーゲ海沿岸まで勢力を伸ばすのは、紀元前1350年くらいのことである。んで紀元前1200年頃には崩壊してしまうので、直接接触してた期間が短くて印象薄かったのでは…と思った次第。
https://55096962.seesaa.net/article/503761305.html
●地図
「アッヒヤワ」の勢力圏に隣接して、「アルザワ」というこれまた似たような名前の国/勢力が存在した。
両者は全然別もので無関係なのだが、分かりづらいと思うので、ちょっと整理メモを残して
簡単に説明すると、「アルザワ」はヒッタイト人が来るのより前から暮らしていたルウィ語民族と考えられており、アナトリアの西の海沿いにあった国/集団名である。一つの大国というよりは、いくつかの関連する勢力の連合で、エジプトと同盟ししていた時期もある。ヒッタイト全盛期にはアルザワは駆逐され、ルウィ語圏もほぼ消滅。エジプトとヒッタイトが大戦争やって和平するのはそのあとのことだ。
「アッヒヤワ」は先に述べたようにアカイア人のことで、アッヒヤワが住み着いていたと考えられる島嶼・沿岸部とヒッタイトの間にアルザワ勢力圏が挟まっている。
つまり、アカイア人≒アッヒヤワとヒッタイトが直接接触出来たのは、ヒッタイトがアルザワを追いやってアナトリア西岸まで進出していた時期に限られる可能性がある。
ヒッタイト側は文字があったのでこの時のことを記録できたが、文字がなかったアッヒヤワはそれを記録するすべを持たず、印象としてもそこまで大きくなかったかもしれない。
で、口伝として残ったのは一部の戦争の記憶くらいで、結果的にギリシャ側での記録が消えてしまったのじゃないかなあ…という感じ。
というか、そもそもアッヒヤワの人々は、アナトリア沿岸部までしか進出しておらず、おそらく内陸の情報はあまり持っていなかった。
つまりヒッタイトという勢力のことは、「なんかアナトリアにでかい国があるらしい」くらいの認識だったか、アルザワとの区別がイマイチついていなかったとか、そういう話なのかもしれない。
少数の交易商や遠征隊だけがアナトリアと行き来としていたなら、そんなもんかもしれないなあ…と…。
なんか、だんだん謎の答えが見えてきた感じがして嬉しい。いいぞ、これが楽しいんだ。
10年越しの疑問がまた一つ片付いた。一つ片付くと二つ疑問が出てるような気もするけど、前には進んでるからまぁいいか。