トリノ聖骸布を巡る奇妙な物語と真贋論争について:「本物で無いことは確定している」

トリノ聖骸布についての研究は定期的に発表される。古代エジプトにおけるツタンカーメンと同じく、研究すればどんな結果が出ようと話題になり、研究者の名前が売れるからだ。しかし、それは真贋論争の本質の部分とは何の関係もない。

イエス・キリストの遺体を包んだとされる布、現在はトリノにある「聖なる包み布」は、イエスの死体を包んだ布であるはずもない。その意味では、ぶっちゃけ偽物である。ただ、それに「聖性」を見出し、信仰する人はいる。
日本でいうなら、たとえば「退治された妖狐が変えられた石」とか「天狗が手を突いた岩穴」とか「ダイダラボッチの足跡の湖」とかである。それが本物か偽物かという話ではない。ロマンを許容するかどうかの話なのだ。

ただし、本物であることを「科学的に」証明した、と称することは嘘になる。
分かって楽しんでるぶんにはいいけど、科学的な証明をいじってはいけないのだ。

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というわけで、まず前提となる「なんでこれが本物ではあり得ないのか」という話からしておきたい。


●そもそも死体を包んだだけで輪郭が転写される布ってどいういうことだよ

魚拓じゃあるまいし、なんで包んだだけで布に死体の姿が焼き付くのかという話である。まあ現実的にはあり得ない。
そもそも、この布に焼き付いた像とされるものは、普通に人間魚拓をしても写せない。体の凹凸は無視して、目鼻も腕の重なりも、きっちりクリアに映し出されている。奇跡の力です! と言い張られても、いやいや、常識的に考えて不可能でしょ。としか言いようがない。
これは「絵」なのである。誰がどう見ても。
全身クリアな画像なのに、股間だけご丁寧に両手で隠しているわざとらしさなども、制作された時代の倫理観に沿っていると見なせる。

信仰や神話には、現実的にありえない話が多く含まれる。処女が懐胎するとか、湖の上を歩くとか、完全に死んだ人間が3日後に生き返るとか、そんなものは現実にはあり得ない。だが、「物語としてはアリ」である。
要するに、昔話やおとぎ話として、「そういうことがあったかもね」と有耶無耶にしておくのはアリだが、物証のあるものは話が違う。


●描かれているイエスの姿が「後世に定着したもの」

イエスが生きていた同時代の似顔絵は残っていない。近い時代のものもほとんどない。そして近い時代のもの、ヘレニズム期の美術で描かれるイエスの姿は、まちまちである。死亡時の実年齢を反映してだろうか、若者のようなヒゲのない姿のものもある。また弟子たちに教えを授けるというところからか、ギリシャ哲学の哲学もののようなものもある。むしろ、現在知られているような、長いヒゲと髪をたくわえた姿のものは見当たらない。
イエスの死に際して姿が布に写し取られていたのなら、このようなバラつきは起こり得ない。つまり、2,000年前には聖骸布は存在していなかったことになる。

ちなみに、このよく知られている姿は、ヘレニズム時代の人気の神、ゼウスやセラピスに似せて作られた像だとされている。
当事の人たちが威厳ある神の姿だと思っていたものに似せることで、イエスを神に仕立て上げていったのだ。容姿がヨーロッパ風なのも、生きていた時代のパレスチナ人の風貌ではないのも、ヘレニズム彫刻が元になってるとすれば当然と言える。

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他にもキリスト教の図像は、オリエント世界で信仰されていた既存の図像に乗っかるか、少し変形させて定着したものが多い。有名どころでは幼子イイエスを抱く聖母マリアの姿が子供ホルスを抱くイシス女神の上書きになっている。つまり、後世に定着したイエスの姿を使っていること自体、この布は、どんなに遡っても教会によって信仰が統一されていく5-6世紀以降のものにしかならない。


●布の織り方、埋葬習慣

そして散々言われているとおりなのだが、織物の織り方が2,000年前のエルサレム周辺のものとは違う。また当事のユダヤ人の埋葬習慣では、裸にした死体を一枚の大きな布で包むようなことはしない。時代が合わないのである。
織物の織り方は13世紀以降ではないかとされる。また、そこに絵を描いた手法はテンペラ画とする推測があり、だとすれば13-14世紀頃の作品の可能性が高くなる。奇しくも、この布が世に出たのはちょうどその頃である。

13世紀といえば、十字軍遠征ととともに、聖地から聖遺物を持ち帰るのが流行っていた時代だ。製法にはまだ謎があり、定期的に異論も出るため確定したとは言い難いが、だいたいの素性は分かっていると言って良いと思う。

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というわけで、この布自体がイエスの死体を包んだ布である可能性はほぼ無いし、2,000年前のものである可能性もほぼ無い。
ただ、どのような経緯でこれが作られ、どのようにして世の中の信者を獲得していったのか、という歴史過程を追うのは面白い。

たぶん最初はパトロンの貴族に褒美もらうために芸術家が作ったか、十字軍遠征に家族を送り出した貴族の家が自分の家柄に箔をつけようとして作らせたかしたのだと思う。で、作られた当事は地元の司祭からも教皇からも「どう見ても偽物じゃんwwww」と言われていたのに、何百年も経つうちに、いつのまにか「…もしかしたら、本物かも…」みたいな話になって現在に至る。

いや人間魚拓なんてねえよ、どういう奇跡だよ。と信者でない私などは一蹴してしまうのだが、信仰とは必ずしも理性とは結びつかないものなのだろう。
パンの焦げ目にイエスが浮かんだ、とかいうニュースもたまに見かけるが、キリスト教徒はなんかそういうの好きらしい。
…そのイエスの図像、元ネタはゼウスとかセラピス(ゼウスとエジプトの神の合体形態)とかオソラピス(これも同じ)とか、ヘレニズムの神なんですけどね…。

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おまけ
過去に一回だけ扱ったトリノ聖骸布の研究

トリノ聖骸布の真贋論争を新たな視点から…「流れる血の跡の妥当性」
https://55096962.seesaa.net/article/201807article_23.html

あと、聖遺物の扱いに関する歴史とか。

聖遺物はカネになる。コンスタンチノープルの聖遺物事情と売却の経緯
https://55096962.seesaa.net/article/504862590.html