「シュメール人は何処から来たか分からない謎の民族!」→最近はそこまで謎でもない
一昔前だと、シュメール人やシュメール文化は起源不明で、突然イラン南部にメソポタミアに出現したように書かれていることがあった。
宇宙人と結び付けられる荒唐無稽な話もあったりした。だが、今となってはもうそんなネタは通用しないというか、うっすらとだが、彼らの足取りのようなものが見えてきている。
まず、メソポタミア地域は雨があまり降らず、雨に頼った農法=天水農法では主食の麦が育てられない。
つまり、川から水路で水を引いてくる灌漑農法の技術が無ければ麦を育てて暮らすことが出来ない。そして麦は自生していない。
ということは、最初から灌漑農法を前提としていたシュメールの都市国家文明の担い手は、麦の栽培技術が発達した地域から来ている。
これは、以前、以下の記事に書いた内容と同じ話だ。
麦の栽培は、麦が自生している「肥沃な三日月地帯」から始まっている。そして、その地域はティグリス川、ユーフラテス川の上流に当たる。ということは、麦の栽培技術を持った「誰か」は、川の上流からやってきたと考えて良い。
シュメール文明の発展は、まずはご飯の確保から。
https://55096962.seesaa.net/article/201909article_28.html
なお、川の上流で初期農耕の痕跡のある遺跡については、日本の発掘隊も発掘している。「アラブの春」の動乱が落ち着いたあとの発掘調査で上がった成果については以下を参照。2019年時点のものなので、最新の情報はリンク先の調査隊のページで確認してほしい。
ジャルモ(チャルモ)遺跡と、農耕の起源 ~初期の農耕はすでに水路を利用していたかもしれない
https://55096962.seesaa.net/article/201902article_21.html
というわけで、農耕技術が移動している以上、人の移住まではあっただろうと推測できる。
問題は、農耕技術を持った人がどのくらいの規模で移住してきたか、元々そこにいた住民とどう混ざりあったか、という部分が分からないことだ。
日本の場合を思い出してほしい。稲作は大陸から伝えられたものだが、稲作を伝えた渡来人の数はそれほど多くなかった。だが、土着の縄文人と混じりあううちに、現代の日本人の外見は渡来人寄りに変わった。全く異なる文化に変わったわけではないが、稲作の伝播とともに新しい風習や概念が導入された。
メソポタミアも同様のことが起きているとすると、住民が全く入れ替わったわけではなく、混じり合って一部が上書きされたのだ。
メソポタミアのシュメール以前の文化は、ウバイド文化と呼ばれる。これを土着人の文化と考えるならば、ウバイドからシュメールへの転換期に麦作が伝わったことになるが、そう言い切れる証拠は、まだ揃っていないように見える。
つまり、現段階では「なんかうっすらと歴史の道筋が見えたような気がする」けど「まだ細かいところ分からん」という状態。
専門家も断言は難しいと思う。ただ、何も分からない闇の中ではない。学術的な薄明の時代。少なくとも、昔ほど荒唐無稽な空想の入り込む余地は無くなっている。
****
参考までに、というか、すべてのスタート地点として以下の記事を置いておく。
ざっくり言うと「メソポタミア」という地域に様々な民族がやって来て住み着いたこと、「シュメール」を地名として扱う場合はメソポタミアの中でも南部しか入らないことなどに留意が必要。
メソポタミア=シュメール ではない。シュメール、アッカド、アッシリア、バビロニア、違いをまとめた。
https://55096962.seesaa.net/article/201506article_12.html
最近はオカルト界隈も使い古しのネタばっか持ってきてイマイチ面白くないんですよね。ハンコックの最新刊も「あーこれ前に見たな…」って感じのネタだったし。もうちょっとこう、本当っぽくロマンいっぱいの説を持ってきて欲しい。ツッコミ甲斐がないと読んでもつまんないので。
宇宙人と結び付けられる荒唐無稽な話もあったりした。だが、今となってはもうそんなネタは通用しないというか、うっすらとだが、彼らの足取りのようなものが見えてきている。
まず、メソポタミア地域は雨があまり降らず、雨に頼った農法=天水農法では主食の麦が育てられない。
つまり、川から水路で水を引いてくる灌漑農法の技術が無ければ麦を育てて暮らすことが出来ない。そして麦は自生していない。
ということは、最初から灌漑農法を前提としていたシュメールの都市国家文明の担い手は、麦の栽培技術が発達した地域から来ている。
これは、以前、以下の記事に書いた内容と同じ話だ。
麦の栽培は、麦が自生している「肥沃な三日月地帯」から始まっている。そして、その地域はティグリス川、ユーフラテス川の上流に当たる。ということは、麦の栽培技術を持った「誰か」は、川の上流からやってきたと考えて良い。
シュメール文明の発展は、まずはご飯の確保から。
https://55096962.seesaa.net/article/201909article_28.html
なお、川の上流で初期農耕の痕跡のある遺跡については、日本の発掘隊も発掘している。「アラブの春」の動乱が落ち着いたあとの発掘調査で上がった成果については以下を参照。2019年時点のものなので、最新の情報はリンク先の調査隊のページで確認してほしい。
ジャルモ(チャルモ)遺跡と、農耕の起源 ~初期の農耕はすでに水路を利用していたかもしれない
https://55096962.seesaa.net/article/201902article_21.html
というわけで、農耕技術が移動している以上、人の移住まではあっただろうと推測できる。
問題は、農耕技術を持った人がどのくらいの規模で移住してきたか、元々そこにいた住民とどう混ざりあったか、という部分が分からないことだ。
日本の場合を思い出してほしい。稲作は大陸から伝えられたものだが、稲作を伝えた渡来人の数はそれほど多くなかった。だが、土着の縄文人と混じりあううちに、現代の日本人の外見は渡来人寄りに変わった。全く異なる文化に変わったわけではないが、稲作の伝播とともに新しい風習や概念が導入された。
メソポタミアも同様のことが起きているとすると、住民が全く入れ替わったわけではなく、混じり合って一部が上書きされたのだ。
メソポタミアのシュメール以前の文化は、ウバイド文化と呼ばれる。これを土着人の文化と考えるならば、ウバイドからシュメールへの転換期に麦作が伝わったことになるが、そう言い切れる証拠は、まだ揃っていないように見える。
つまり、現段階では「なんかうっすらと歴史の道筋が見えたような気がする」けど「まだ細かいところ分からん」という状態。
専門家も断言は難しいと思う。ただ、何も分からない闇の中ではない。学術的な薄明の時代。少なくとも、昔ほど荒唐無稽な空想の入り込む余地は無くなっている。
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参考までに、というか、すべてのスタート地点として以下の記事を置いておく。
ざっくり言うと「メソポタミア」という地域に様々な民族がやって来て住み着いたこと、「シュメール」を地名として扱う場合はメソポタミアの中でも南部しか入らないことなどに留意が必要。
メソポタミア=シュメール ではない。シュメール、アッカド、アッシリア、バビロニア、違いをまとめた。
https://55096962.seesaa.net/article/201506article_12.html
最近はオカルト界隈も使い古しのネタばっか持ってきてイマイチ面白くないんですよね。ハンコックの最新刊も「あーこれ前に見たな…」って感じのネタだったし。もうちょっとこう、本当っぽくロマンいっぱいの説を持ってきて欲しい。ツッコミ甲斐がないと読んでもつまんないので。