ラメセス2世の時代は「平和」だったか。ヒッタイトとの条約はあまり平和に関係しないという話
エジプトくわしくない人が「ラメセス2世の時代のエジプトは平和だったはず。大国ヒッタイトと平和条約を結んだから大きな戦争はなかったと思う」と言っていて、えっマジで?軍事王だからめちゃくちゃ遠征してて戦争アリアリの時代だけど? と思ってしまった。
というわけで、知らない人が勘違いしている部分が見えたので、ちょっと解説しておきますね…
●ヒッタイトはエジプトの隣国ではない
まずはコレ。
ツタンカーメンの未亡人がヒッタイトの王子に婿入りを希望したり、昔の少女マンガでエジプトとヒッタイトの地理が近そうな描写があったりするから勘違いされやすいけど、地図見れば分かる。 というかヒッタイトの首都・ハットゥシャの位置を調べてほしい。
アナトリアの北の方だから…。
そのヒッタイトが最盛期に入り、エジプトの属国だったエリアに進出してきて、↓の地図の赤丸つけたあたりが係争地になって戦争が起きたのがラメセス2世の時代である。
つまり、日本軍とモンゴル軍が朝鮮半島で戦ったようなもん。
そしてヒッタイトの最盛期は短く、条約結んでから100年もたずに滅亡してしまう。
●戦争後、協定が結ばれるまで15年かかっている
これも年表書けば分かる。
エジプト・ヒッタイトの大戦争、カデシュの戦いはラメセス2世の治世4年目あたりで、条約が21年目あたり。なので、戦争が終わって即その場で結ばれたわけではなく、大戦争の結果が直接関係しているかどうかは微妙。
・カデシュの戦いの時のヒッタイト王 → ムワタリ
・条約締結の時ヒッタイト王 → ハットゥシリ3世
・王家同士の婚姻の時ヒッタイト王 → トゥトゥハリヤ4世
この条約後、ヒッタイトは政局が不安定になり一気に滅亡に向かっていること、エジプト側から協定に従って支援をした記録があることから、平和協定というより、周辺の敵対国家の動きが怪しいのでとりあえず敵を1つ減らしておく、という意味での共同防衛協定くらいでしかないと思う。
ヒッタイトはこのあとサクっと滅亡してしまうが、もし弱体化しながら存続していたら、協定が破棄されていた可能性はある。
●ラメセス2世の時代には砦や防壁が多く築かれている
建築王と呼ばれる所以の一つでもある。東の国境は「ホルスの道」と呼ばれる街道と、街道沿いの砦。西の国境では砂漠から侵入してくるリビア人に対抗するための要塞が作られている。周囲が砂漠だと大規模な敵国の軍勢は攻めてきづらいが、少人数のゲリラ的な蛮族が攻めてくることはあるのだ。これは現代でも同じで、警察の追跡を逃れる賊は砂漠に逃亡するらしい。砂漠は、法の届き難い土地なのだ。
https://55096962.seesaa.net/article/502315614.html
また、南の国境線も防衛が必要な場所になる。そもそもエジプトが植民地支配をしていたヌビアは歴史的に、王の軍事力が弱まると反乱を起こし独立しようと動く土地になる。
そもそも、アブ・シンベル神殿がエジプトの南の国境にある理由もそれだとされる。つまり、南方の支配部族に対し王の威光を示し、反抗の意思を摘むためだ。
各方向の国境で防衛のための戦力が必要なので、国土が広くなればなるほど大変になる。
ラメセス2世の時代のエジプトは国土が西アジアまで拡大しているので、他の時代より多くの防衛力が必要だっただろう。もしこの時代の戦闘が少なかったとするならば、それは、他勢力より強大な軍事力によって戦争が抑えられていたことになる。
=====
●というわけで、結論
ヒッタイトとの協定は平和にあんま関係ない。協定なくても、ヒッタイトの国力はその後、エジプトより先に落ちていくので、再度の大戦は出来なかったと思う。
ラメセス2世の時代は多数の要塞やモニュメントを作れるほど国政が安定していたのと、エジプトの軍事力が他を上回っていたので、他の時代より小競り合い的な戦争は少なかった可能性がある。
現代ですら国と国の協定は破られがちだし、同盟したからといって必ずしも平和になるとも限らない。古代でもそれは同じ。
エジプトとヒッタイトの協定は確かに歴史的な意義のあるものだが、過大評価するものでもないよな。と思う次第。
というわけで、知らない人が勘違いしている部分が見えたので、ちょっと解説しておきますね…
●ヒッタイトはエジプトの隣国ではない
まずはコレ。
ツタンカーメンの未亡人がヒッタイトの王子に婿入りを希望したり、昔の少女マンガでエジプトとヒッタイトの地理が近そうな描写があったりするから勘違いされやすいけど、地図見れば分かる。 というかヒッタイトの首都・ハットゥシャの位置を調べてほしい。
アナトリアの北の方だから…。
そのヒッタイトが最盛期に入り、エジプトの属国だったエリアに進出してきて、↓の地図の赤丸つけたあたりが係争地になって戦争が起きたのがラメセス2世の時代である。
つまり、日本軍とモンゴル軍が朝鮮半島で戦ったようなもん。
そしてヒッタイトの最盛期は短く、条約結んでから100年もたずに滅亡してしまう。
●戦争後、協定が結ばれるまで15年かかっている
これも年表書けば分かる。
エジプト・ヒッタイトの大戦争、カデシュの戦いはラメセス2世の治世4年目あたりで、条約が21年目あたり。なので、戦争が終わって即その場で結ばれたわけではなく、大戦争の結果が直接関係しているかどうかは微妙。
・カデシュの戦いの時のヒッタイト王 → ムワタリ
・条約締結の時ヒッタイト王 → ハットゥシリ3世
・王家同士の婚姻の時ヒッタイト王 → トゥトゥハリヤ4世
この条約後、ヒッタイトは政局が不安定になり一気に滅亡に向かっていること、エジプト側から協定に従って支援をした記録があることから、平和協定というより、周辺の敵対国家の動きが怪しいのでとりあえず敵を1つ減らしておく、という意味での共同防衛協定くらいでしかないと思う。
ヒッタイトはこのあとサクっと滅亡してしまうが、もし弱体化しながら存続していたら、協定が破棄されていた可能性はある。
●ラメセス2世の時代には砦や防壁が多く築かれている
建築王と呼ばれる所以の一つでもある。東の国境は「ホルスの道」と呼ばれる街道と、街道沿いの砦。西の国境では砂漠から侵入してくるリビア人に対抗するための要塞が作られている。周囲が砂漠だと大規模な敵国の軍勢は攻めてきづらいが、少人数のゲリラ的な蛮族が攻めてくることはあるのだ。これは現代でも同じで、警察の追跡を逃れる賊は砂漠に逃亡するらしい。砂漠は、法の届き難い土地なのだ。
https://55096962.seesaa.net/article/502315614.html
また、南の国境線も防衛が必要な場所になる。そもそもエジプトが植民地支配をしていたヌビアは歴史的に、王の軍事力が弱まると反乱を起こし独立しようと動く土地になる。
そもそも、アブ・シンベル神殿がエジプトの南の国境にある理由もそれだとされる。つまり、南方の支配部族に対し王の威光を示し、反抗の意思を摘むためだ。
各方向の国境で防衛のための戦力が必要なので、国土が広くなればなるほど大変になる。
ラメセス2世の時代のエジプトは国土が西アジアまで拡大しているので、他の時代より多くの防衛力が必要だっただろう。もしこの時代の戦闘が少なかったとするならば、それは、他勢力より強大な軍事力によって戦争が抑えられていたことになる。
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●というわけで、結論
ヒッタイトとの協定は平和にあんま関係ない。協定なくても、ヒッタイトの国力はその後、エジプトより先に落ちていくので、再度の大戦は出来なかったと思う。
ラメセス2世の時代は多数の要塞やモニュメントを作れるほど国政が安定していたのと、エジプトの軍事力が他を上回っていたので、他の時代より小競り合い的な戦争は少なかった可能性がある。
現代ですら国と国の協定は破られがちだし、同盟したからといって必ずしも平和になるとも限らない。古代でもそれは同じ。
エジプトとヒッタイトの協定は確かに歴史的な意義のあるものだが、過大評価するものでもないよな。と思う次第。