古代エジプトの東の国境に「運河」はあったか。水路っぽい遺構の可能性について

古代エジプトの訓戒文学の一つに、「メリカラー王への教訓」と呼ばれるものがある。第一中間期の終わり、ヘラクレオポリス王朝の最後の王メリカラーに対し、父王ケティが授けたという体裁で書かれたものだ。
その中に、東からやってくるアジア人に対して防衛せよという内容があるのだが、水路らしきものを備えていたと読める部分がある。

(99行目)
下エジプトの半分には水路を掘り、塩湖に至るまで水を満たせ。見よ、そこは夷(えびす)びとのへその緒なのだ。

「エジプト神話修集成」ちくま学芸文庫の訳より


塩湖、というのは、現在シナイ半島の一部になっているグレート・ビター湖と、その北にあるティムサーハ湖のこと。
この文章については解釈が何通りかあるらしいが、もし、上記のとおり「水路」という単語が正しいのなら、古代には既に地中海から塩湖まで水路が通されていた可能性があるわけだ。

前置きが長くなったが、その水路らしき痕跡が、実はある。
シナイ半島をイスラエルが支配していた時代に調査されたデータと、現在のアメリカの監視衛星のデータを組み合わせて出された痕跡が以下だ。

2235455625.png

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場所が分かりづらいと思うが、右上の「ペルシウム」という地名をキー座標とすると位置がわかりやすい。
エジプトの東の果て、現代においても国境となっている場所だ。

Lower_Egypt-en.png

出典元は以下。

The Walls of the Ruler in Egyptian Literature and the Archaeological Record Investigating Egypts Eastern Frontier in the Bronze Age
https://www.academia.edu/2118871/The_Walls_of_the_Ruler_in_Egyptian_Literature_and_the_Archaeological_Record_Investigating_Egypts_Eastern_Frontier_in_the_Bronze_Age?email_work_card=interaction-paper

ただ、この水路っぽいもの、建造された年代を特定できる証拠が何も見つかっていない。調査しても遺物はでてきていないという。
そもそもの話しをすると、古代に築かれていた国境線の防御壁、「支配者の壁」自体、遺構が全く見つかっていないのだ。現状は、壁に付随して設けられていたであろう砦の遺跡を結ぶようにして壁のあった場所が推定されている。その壁の位置と水路がだいたい一致する。

もしも、この水路が国境の壁と同時期に作られていたなら、「支配者の壁」は地中海からグレート・ビター湖まで続く半天然の”お掘り"だった可能性がある。
その場合は、「メリカラー王への訓戒」にある「夷びとのへその緒」は命の源である貴重な水源という意味だったかもしれない。

ただ、証拠はない。
スエズ運河沿いということもあり、急速に開発が進みつつあるようなので、発掘できる場所も少ないんだそうだ…。

あと王権が弱まっていた第一中間期にそこまで大規模な工事ができるのか、という問題もある。この遺構が古王国時代に作られたものだとしたら、「支配者の壁」自体の起源もそこまで遡らせる必要が出てくるので、ちょっと微妙。やはり年代特定できるものが何も出てきてないのが痛いなという感じ。可能性としては面白いんだけどな。


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[>参考までに、以前調べた東の国境についての資料

ホルスの道の出発点を探して。~「シレの砦」はどこにある?
https://55096962.seesaa.net/article/502046471.html

シレ/チャルウの砦があった場所は、かつてはAbu Sefêh遺跡だとされていたのだが、近年の発見でHebuaに修正されているので注意。


古代エジプトの東の国境線「支配者の壁」の位置の覚書き
https://55096962.seesaa.net/article/503455730.html

壁のあっただろう場所の地図。