エジプト→ヒッタイト間の書簡往復はけっこう大変。ルート推測/陸路は途中のルートにある山脈が邪魔

新王国時代のエジプトと、帝国時代のヒッタイトは書簡の往復をし、条約を結ぶなどのやり取りもしていた。
これは古代史の本には頻繁に出てくる内容だ。ただし、実際どのルート通って使者が行き来していたかの資料は少ない。
双方の首都から書簡や碑文が発見されている以上、かなり頻繁に行き来があったと思われるが、古代世界の長距離旅行はそれほど安全ではない。使者が行方不明になるとか、途中で死亡するケースも何度かはあったのではないだろうか。その場合どのように対処していたのかは気になるところである。

というわけで、地図を眺めてみよう。
エジプトの首都(テーベ/ルクソール/古名ウアセト)から、ヒッタイトの首都(ボアズキョイ/古名ハットゥシャ)までは、陸路と海路の2通りがある。

陸路の場合、お互いが属国としていたシリア・パレスチナ地方を通ることになるが、そのままハットゥシャまでまっすぐ北上することはできない。
途中の山(タウロス山脈)がものすごく邪魔なのだ。ていうか越えられない山なのだ。
写真で見るとガチ山だし、最高峰のあたりはかなりの高山地帯。周辺も山々が連なっており、隊商などは迂回するしかない。余談だが、ヒッタイトがバビロニアまで攻め下った時も、この山脈を大きく迂回して東寄りのルートを辿っている。
この山を通過する古代の交易路もあったようなのだが、かなり険しい道を越えていく峠道ルートだったはずだ。標高からして冬場は越えるのが難しい、季節限定ルートではないかと思う。

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エジプトからハットウシャに向かう場合、もし陸路を使うなら、同じようにこの山脈を大きく迂回して東側に抜ける必要がある。
なので最短距離としては海上ルートのほう。ヒッタイトはウラ港という港を持っていたようで、遺跡は未発見だが、おそらく現代のSilifkeかGilindereあたりにあっただろうとされている。ここより北だとアルザワなど別勢力の領域になってしまうので、ヒッタイト行きならこのへんの港で上陸するのが最短になる。

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というわけで、エジプトからの使者は、ビブロスあたりから船に乗り、ウラ港まで岸沿いに北上して、そこから陸路でハットゥシャまで行ったのではないかと推測する。やっぱ、結構大変だなこれ…。

新王国時代の治安を考えると、ビブロスまではエジプトの支配下にあるのでほとんど危険なし。
海路は沈没の危険性もあるのでそこそこ危険。
上陸後の長距離移動(当時は乗馬技術がないため徒歩、あってもロバ移動あたり?)は治安というより体調の危険がありそう。

いずれにしても、西アジア地域の属国と沿岸部の治安、そしてアナトリア内陸部の治安と通行の安全が保証されていなければ、この書簡往復は実現しない。つまりエジプトとヒッタイトがともに大国であり、自国首都から離れた周辺地域まで目を光らせていることのできる時代だったからこそ出来たやりとり、と言えるだろう。


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調べ直してみて、あらためて「エジプトとヒッタイト遠いな…」と思った。いやちょっと旅行いきたいなと思ってトルコ国内のバス路線調べてたついでなんだけど、現代のバスでも遠いよ…。アンカラから南部もしくは西部の遺跡に行くならもう飛行機一択だよ。値は張るけど。

書簡のやりとりがあったからといって、庶民が簡単にホイホイ移動できる距離ではないし、当時は船の定期便や乗合馬車なんてものもないんだから、王家の使いとか豪商くらいじゃないと行き来できないっすわこれ。

というわけで、ヒッタイト一般人がホイホイとエジプトにやって来る、みたいな創作物は、ちょっと考えたほうがいいっす。ほんと遠いんで。
ツタンカーメンの嫁がヒッタイトの王子を婿にもらおうとしたり、ヒッタイトからラメセス2世のところに嫁が嫁いできたりしてたのは、特例中の特例だと思ったほうがいい。