日本語であんま資料出てこなかったので。トルコ・シャンウルファの「エデッサ王国の墳墓群」について
トルコ南部にあるシャンウルファ(または単に「ウルファ」)は、1万年以上に渡る居住の痕跡がある古い街である。ギリシャ語での街名はエデッサ。ギリシャ史から入った場合、こちらの名前のほうが馴染みがあるかもしれない。
この街はギョベックリ・テペ遺跡(約1万2千年前から居住開始)の最寄りとなっている。
なので1万年前くらいの遺跡から、古代ギリシャ、ローマ、ビザンツ、オスマンと各時代の遺跡・遺物が揃っており、なかなか面白い街になっている。
近くを川が流れるなど、人間が住みやすいと見なす条件を満たしていたため、歴史が続いたのだと思われる。
で、この街の見どころの中に、明らかにギリシャ文化に属する墳墓「クズルコユン・ネクロポリス(トルコ語でKızılkoyun Nekropolü)」という遺跡がある。
モザイク博物館の向かいあたりにあるのだが、その墳墓に何故か「王墓」という説明がつけられていて、ギリシャ文化ってことはアレクサンドロスの征服以降なのに何で王墓なんだ? こんなとこに王国なんてあったっけ? と思って調べてみたら、面白いことが分かった。

この街、アレクサンドロス没後、セレウコス朝の支配下になっていた。
そのセレウコス朝から地元勢力が独立し、オスロエネ王国(Osroene)、別名エデッサ王国を建国。シャンウルファ(エデッサ)の街が首都になり、オスロエネ王国の王墓として建造されたのがこの遺跡だったのだ。

あーね…! と思った。ローマ時代の州名でオスロエネ州ってのもある。確かにこのへんだ。
シャンウルファはカッパドキアの南方だが、この墓もカッパドキア同様に柔らかい岩を削ることで作られており、かつては床にフレスコ画があったらしい。
また地元民はもともと異教徒だったため、ローマが国教としてキリスト教を採用したあとキリスト教的な「修正」も加えられつつ、500年に渡り使われていたらしい。
だが、そうして継続されていた独自文化も、天災と改宗で途切れてしまう。
まずAD525年の大洪水で街が水没した際に墳墓が一緒に沈んでしまい、大半が破壊されたとのこと。
そして、その100年ほどのちにイスラム支配が始まり、岩窟墓の文化も完全に途絶えたのだそうだ。
で、その後は、お墓エリアがスラム街になってしまっていたようで…たぶん墓穴をそのまま家にしていた…遺跡の残りはあまり良くない。が、作られた経緯として面白い。すぐ目の前にモザイク博物館と考古学博物館があり、発掘された遺物はそこで見られるとのことだ。
やっぱ東地中海沿岸の遺跡って歴史が重層的で面白いんですよね。あっそこの歴史繋がるの? とか、えっ、こんなとこにこの時代の遺跡ある?? とか、調べると色々出てくるので。そんで、調べてると大体どっかでエジプトに繋がるので、おうちに帰るのも楽。これぞでかい沼(というか地中海)である。
この街はギョベックリ・テペ遺跡(約1万2千年前から居住開始)の最寄りとなっている。
なので1万年前くらいの遺跡から、古代ギリシャ、ローマ、ビザンツ、オスマンと各時代の遺跡・遺物が揃っており、なかなか面白い街になっている。
近くを川が流れるなど、人間が住みやすいと見なす条件を満たしていたため、歴史が続いたのだと思われる。
で、この街の見どころの中に、明らかにギリシャ文化に属する墳墓「クズルコユン・ネクロポリス(トルコ語でKızılkoyun Nekropolü)」という遺跡がある。
モザイク博物館の向かいあたりにあるのだが、その墳墓に何故か「王墓」という説明がつけられていて、ギリシャ文化ってことはアレクサンドロスの征服以降なのに何で王墓なんだ? こんなとこに王国なんてあったっけ? と思って調べてみたら、面白いことが分かった。

この街、アレクサンドロス没後、セレウコス朝の支配下になっていた。
そのセレウコス朝から地元勢力が独立し、オスロエネ王国(Osroene)、別名エデッサ王国を建国。シャンウルファ(エデッサ)の街が首都になり、オスロエネ王国の王墓として建造されたのがこの遺跡だったのだ。

あーね…! と思った。ローマ時代の州名でオスロエネ州ってのもある。確かにこのへんだ。
シャンウルファはカッパドキアの南方だが、この墓もカッパドキア同様に柔らかい岩を削ることで作られており、かつては床にフレスコ画があったらしい。
また地元民はもともと異教徒だったため、ローマが国教としてキリスト教を採用したあとキリスト教的な「修正」も加えられつつ、500年に渡り使われていたらしい。
だが、そうして継続されていた独自文化も、天災と改宗で途切れてしまう。
まずAD525年の大洪水で街が水没した際に墳墓が一緒に沈んでしまい、大半が破壊されたとのこと。
そして、その100年ほどのちにイスラム支配が始まり、岩窟墓の文化も完全に途絶えたのだそうだ。
で、その後は、お墓エリアがスラム街になってしまっていたようで…たぶん墓穴をそのまま家にしていた…遺跡の残りはあまり良くない。が、作られた経緯として面白い。すぐ目の前にモザイク博物館と考古学博物館があり、発掘された遺物はそこで見られるとのことだ。
やっぱ東地中海沿岸の遺跡って歴史が重層的で面白いんですよね。あっそこの歴史繋がるの? とか、えっ、こんなとこにこの時代の遺跡ある?? とか、調べると色々出てくるので。そんで、調べてると大体どっかでエジプトに繋がるので、おうちに帰るのも楽。これぞでかい沼(というか地中海)である。