「お前、あの祠を壊したんか!」→祠を壊すと「祟られる」より「人外さんとの縁が切れる」ほうが多いと思うよ
何故かネットミームと化している「祠を壊す」。「エルフの村を焼く」と同系列のミームかなと思うのだが、なんとなく、創作に出てくる祠の話で、実際に存在する祠の話じゃないな? という気がした。
まず基本事項として、「祠」とは何なのか。
祟り神や悪霊を封じ込めるためのもの、あるいは、かつてそこで起きた災害や悲劇の記憶を留めるもの。
その場合は、壊すことで悪霊や災害が解き放され、祟りが起きるかもしれない。
しかし、中の人が山歩きとか辺境歩きで見かける祠の多くは、近くの集落を守護してもらうために過去に神下ろしの行われた場所だったり、その土地に縁のある霊を「神」として祀るためのものである。
なので、それを壊すことによって起きるのは、人と神、または近隣住民とその土地の縁が切れるという事態だと思われる。
基本事項として、日本古来の神々は、天から地上へ、最初に山へと降臨することになっている。山体そのものが神格化されていたり、山頂やふもとに神社があるのは、そのためだ。神社までは作られなくとも、山中に小さな祠が置かれることは多い。
奇異な岩や目立つ地形、大木なども神霊を宿すものとして信仰の対象となり、神格化されるに当たって祠が作られることがある。
ただし、これらは「祠を作り」「名をつけ」「祀る」ことによって維持されている契約のようなものだ。祠が失われたり、名前が忘れられたり、祀る行為が途切れたりすると、神霊は天へ還るか、人や土地を守るものでは無くなる。
山を歩いていると祠めぐりをするように山道が作られていることがあるが、これは、上記の手続きを継続するため、古来から人が祠と集落を往来した結果、その足取りが道となった結果と考えられる。もしくは、もともと往来のあった道を守ってもらうために置いたもので、たとえば箱根の旧街道沿いにある祠なんかは旅人の守護の意図ではないかと思う。
祠があり、それが祀られている間は、その場所に人ならざるものたちとの「縁」が機能している。
つまり、日本古来の宗教観からすると、祠を壊した場合に最初にすべきことは、祟りを恐れるより先に謝罪して祠を作り直し、縁を結び直すことではないかと思うのだ。
実際に存在する祠の話じゃないな、と思った理由が、まさにここ。
ネットミームの始まりにある、祠=妖怪やバケモノを封じるもの というのは、創作によくある設定であり、現実の祠は、自然とともに生きていた昔の人々が、その自然の中に感じた神霊と縁を結んできた証なのだから…。
都会に暮らすようになった現代の人間は、かつてそこに祠が作られた理由も、自然への畏怖や感謝も忘れ、かつての守護者たちをバケモノ扱いするようになってしまったのかなあ。
などと言ってしまうと、ちょっとありきたりの感想すぎるのだが…。
****
というわけで、自分のお気に入りの祠とか上げときますね。
奥多摩の稲村岩の上にある小さな祠。作り直された形跡があり、今も信仰されていることがわかる。
登山道から離れて岩に登らないと見えないので、知ってる人は少ないかもしれない。ていうか登るのも結構大変。
でも、機会があったら見に行ってみてほしい。この岩の上から下の集落が見えて、ああ、この祠が見守ってることになってるんだ…って感じられる。
あと、絶海の孤島・青ヶ島の崖っぷちで自然に還ろうとしている天狗のほこら。
青ヶ島はかつて噴火によって島民が全員避難し、噴火の収まったあと、再び「還住」した島。島中あちこちに沢山の祠があり、「ここまでしないと、火山島を鎮められなかったのか」と驚く。
祠とは、昔の人たちが、厳しい自然をなんとか宥めるために設置したものでもある。
旅先で、意外な場所に祠を見つけて、その祠が丁寧に手入れされていたりすると、この世とあの世のはざまの目に見えない「縁」の道がまだ繋がっているような気がして、ちょっと嬉しくなるのが中の人です。
まず基本事項として、「祠」とは何なのか。
祟り神や悪霊を封じ込めるためのもの、あるいは、かつてそこで起きた災害や悲劇の記憶を留めるもの。
その場合は、壊すことで悪霊や災害が解き放され、祟りが起きるかもしれない。
しかし、中の人が山歩きとか辺境歩きで見かける祠の多くは、近くの集落を守護してもらうために過去に神下ろしの行われた場所だったり、その土地に縁のある霊を「神」として祀るためのものである。
なので、それを壊すことによって起きるのは、人と神、または近隣住民とその土地の縁が切れるという事態だと思われる。
基本事項として、日本古来の神々は、天から地上へ、最初に山へと降臨することになっている。山体そのものが神格化されていたり、山頂やふもとに神社があるのは、そのためだ。神社までは作られなくとも、山中に小さな祠が置かれることは多い。
奇異な岩や目立つ地形、大木なども神霊を宿すものとして信仰の対象となり、神格化されるに当たって祠が作られることがある。
ただし、これらは「祠を作り」「名をつけ」「祀る」ことによって維持されている契約のようなものだ。祠が失われたり、名前が忘れられたり、祀る行為が途切れたりすると、神霊は天へ還るか、人や土地を守るものでは無くなる。
山を歩いていると祠めぐりをするように山道が作られていることがあるが、これは、上記の手続きを継続するため、古来から人が祠と集落を往来した結果、その足取りが道となった結果と考えられる。もしくは、もともと往来のあった道を守ってもらうために置いたもので、たとえば箱根の旧街道沿いにある祠なんかは旅人の守護の意図ではないかと思う。
祠があり、それが祀られている間は、その場所に人ならざるものたちとの「縁」が機能している。
つまり、日本古来の宗教観からすると、祠を壊した場合に最初にすべきことは、祟りを恐れるより先に謝罪して祠を作り直し、縁を結び直すことではないかと思うのだ。
実際に存在する祠の話じゃないな、と思った理由が、まさにここ。
ネットミームの始まりにある、祠=妖怪やバケモノを封じるもの というのは、創作によくある設定であり、現実の祠は、自然とともに生きていた昔の人々が、その自然の中に感じた神霊と縁を結んできた証なのだから…。
都会に暮らすようになった現代の人間は、かつてそこに祠が作られた理由も、自然への畏怖や感謝も忘れ、かつての守護者たちをバケモノ扱いするようになってしまったのかなあ。
などと言ってしまうと、ちょっとありきたりの感想すぎるのだが…。
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というわけで、自分のお気に入りの祠とか上げときますね。
奥多摩の稲村岩の上にある小さな祠。作り直された形跡があり、今も信仰されていることがわかる。
登山道から離れて岩に登らないと見えないので、知ってる人は少ないかもしれない。ていうか登るのも結構大変。
でも、機会があったら見に行ってみてほしい。この岩の上から下の集落が見えて、ああ、この祠が見守ってることになってるんだ…って感じられる。
あと、絶海の孤島・青ヶ島の崖っぷちで自然に還ろうとしている天狗のほこら。
青ヶ島はかつて噴火によって島民が全員避難し、噴火の収まったあと、再び「還住」した島。島中あちこちに沢山の祠があり、「ここまでしないと、火山島を鎮められなかったのか」と驚く。
祠とは、昔の人たちが、厳しい自然をなんとか宥めるために設置したものでもある。
旅先で、意外な場所に祠を見つけて、その祠が丁寧に手入れされていたりすると、この世とあの世のはざまの目に見えない「縁」の道がまだ繋がっているような気がして、ちょっと嬉しくなるのが中の人です。