古代エジプト・ウナス王の「飢饉のレリーフ」は実際の飢饉ではない可能性あり、飢饉碑文の解釈その他について

まず前提として、エジプトは砂漠の国であり、雨はほとんど降らない。
なので農業はナイル川の水頼りであり、上流のアフリカ中央部の降雨が少なく、ナイルの水位が低すぎる年には収穫が壊滅する危険性があった。には現代のように地下水の組み上げや海水の淡水化などの手法が無い古代世界において、ナイルがさかんに讃えられ、増水を祝う祭りも行われていたのは、この川がまさに生命線だったからである。

ただ、このナイルの水量は常に安定していたわけではない。古王国時代には何度か増水が止まった期間があったとされ、証拠として上げられるのはだいたい行かの2つ。

・ウナス王のピラミッド前の参道のレリーフにある、やせ細った人々
・アスワンのセヘール島にある飢饉の石碑(古王国時代のジェセル王ものを写した、となっているが、後世のプトレマイオス朝の再建)

ウナス王のピラミッド前にあるレリーフは、以下のようなもの。
このやせ細った人の写真は、色んな本で使われているのでどっかで見たことがあるかもしれない。ただ、具体的にいつの、どこの風景なのか説明文が何もなく、レリーフの一部だけしか残っていないので、解釈は別れている。
https://madainproject.com/famine_relief_from_unas_causeway

w3efgg7.png

普通に考えると、これは実際に起きた飢饉だと思うかもしれない。
だが、そもそも飢饉が起きているならピラミッド作ってる場合じゃない。

そう、国民がこんなにやせ細るほど何年も飢饉が続いているのなら、ピラミッド作ってる場合じゃないんである。
また、古代世界において、飢饉やナイルの増水不良は神の世界と人間の世界をつなぐ王の不手際なので、自分の大恥をこんなとこに残すはずもない。

しかもこれ、ピラミッドに向かう参拝者用の参道の壁面に描かれている。通常なら、ここに描かれるのは王が生前に成し遂げた偉業や、後世に伝えたい業績のはずだ。
従って現在では、これは「打倒したり、追い払ったりした敵が惨めな生活をしているのを誇っているレリーフ」だと解釈するのが主流となっている。


もう一つの、ジェセル王の時代のものとされる飢饉碑文では、7年の飢饉が続き、増水をもたらすナイル上流の神であるクヌム神の怒りを解こうとした、という内容が書かれいる。
ただし、この碑文は2000年近く後に再建されているので、そのまま史実と信じるのはちょっと厳しい。7年というやけにキリのいい数字も神話の匂いがする。

総合すると、「古王国時代に、ナイルの増水が十分ではないことに起因する飢饉はあったかもしれない」。
ただ、「どの王の時代なのか」、「何年続いたのか」についてははっきりしたことが言えない。
多くの学者が確実だろうと考えているのは、古王国時代の終盤、第6王朝に天候不順があり、それが原因で安定した王権が崩壊して、国土分裂期である第一中間期が始まったのではないか、という説だ。

これなら話は分かる。まさにこの時代にピラミッド建造が衰退するからだ。
飢饉で「ピラミッド作ってる場合じゃない」状態になったのなら、内戦状態になるのも当たり前といえる。


さらにもう一歩進んで考えたいのは、飢饉の記録として上げられるのは、いつも上記の、古王国時代の2つの遺物だけで、他の時代のものが出てこない、ということ。
他の時代にも天候不順は当然あっただろう。ナイル川の水位がかなり下がっていたのでは? と言われる時代は幾つかある。でも、ひどい飢饉の記録がない。収入が減って、財力が低下したくらいで済んでいる。
なぜなのか。

それは、時代が進むとともに灌漑技術が発達し、水路が整備され、水位があまり上がらない年でも、うまく畑に水を入れられる仕組みが整えられていったからだと考えられる。
中王国時代以降、発達した灌漑技術によってエジプト中部のファイユーム湖は穀倉地帯となり、下流のデルタ地帯も可住区域が拡大して行政区分が増えている。
おそらく、ナイルの水位が低すぎることによる影響は古王国時代が最大で、それ以降はそこまで致命的なものでもなくなっていたのでは。と思うのだ。