伝説はなぜ必要とされたのか「女教皇ヨハンナ」

日本の天皇に女性がなれないのは問題だ、などという批判に対して、教皇も男性しかなれない職業じゃんか。と返す現代SNS的なレスバもなんか見飽きたなあ。という感じなのだが、なんとなく「女教皇ヨハンナ」の本を見つけたので読んでみた。

既に知られているとおり、女教皇は史実としては確認出来ず、モデルとなった特定の人物もいない、現在では虚構とされる人物である。だが、その伝説は12世紀頃に登場して以来、20世紀に至るまで語られ、実在が疑われ続けた。民衆に人気があった、というわけではなく、どちらかというと教養や学識のあった人々が利用してきた伝説だった。

では、なぜ彼女は「必要」とされたのか?
と、いうのが、この本の切り口になっている。

女教皇ヨハンナ――伝説の伝記〈バイオグラフィー〉 - マックス・ケルナー, クラウス・ヘルバース, 藤崎衛, エリック・シッケタンツ
女教皇ヨハンナ――伝説の伝記〈バイオグラフィー〉 - マックス・ケルナー, クラウス・ヘルバース, 藤崎衛, エリック・シッケタンツ

伝説は十二世紀ごろから登場しはじめ、十三世紀の、多くの叙事詩が書かれた時代に伝説としての骨子が出来る。この時代は、過去の人物が伝承として作り変えられ、様々な物語を付け加えられて加工されるのが流行っていた時代でもある。

そうして作られた伝説は、数百年後から近代にかけて、盛んに利用された形跡がある。
つまり、強く必要とされたのがその時代なのだ。

一つには、ありきたりの意味合いだが、教皇の権力に対する批判である。

女性であるヨハンナは、人前で出産し死亡したとされる。(別のバージョンの伝説では出産後も生存しているが)
教皇という高位に登っても、死すべき運命や本能的な肉欲からは逃れられない、という風刺。

もしくは教会組織の腐敗を批判する際に、「かつて教会は欺かれて女を教皇に担いだこともあるではないか」と言うための存在。
ペトロの座をいちど女が汚したことにより、その正当性は既に失われているのではないか、といった疑問が呈されたこともあるという。

もう一つには、近代の意味としてフェミニズムへの利用。
女性がなりえないはずの地位に、自らの学識によって上り詰めたすごい女性、という肯定的な意味合いが付け加えられることもあった。

前者の意味合いとしては、宗教改革の時代にヨハンナの存在が多く利用されたという。教会は絶対に間違わないわけではなく、教皇は絶対の存在ではない。批判のために使われたアイコンの一つがヨハンナで、彼女の実在が強く信じられたのとは、特にその時代だという。意外なことに、それまでは「まあ本当かもしれないし嘘かもしれないよね」くらいの曖昧な伝説だったらしい。

つまりは、女教皇を必要とした人々が、実在を強く信じることによって、虚構から現実に変わっていた。
その現実が、ようやく二十世紀に入り、厳密な史料批判や歴史の検討によって否定されるようになった、ということ。
それでも、いまなお彼女は多くの創作物に虚実入り交じる姿で顔を出す。現代人もまた、かつてとは別の意味で、ヨハンナを必要としているのだ。(某ゲームみたいに、単に「戦う強い女聖職者」って意味だとしても…)

意味を変え、必要に応じて伝説の一部さえも変化させながら、虚構たる彼女はこの先も生きながらえていくのだろう。