古代のメソポタミアには「預言者」がいるが、古代エジプトには居ない。~神から言葉を預かる職業宗教人の有無について
「預」言者とは、文字通り神から言葉を「預かる」人のこと。神と会話して、何か重要な事項を預かってくる役目・能力を持った神官のことだ。
有名どころではイエスやムハンマドといった預言者がいるが、彼らの前に、多くの神に属する多くの預言者たちがおり、たとえば、旧約聖書では、バアル神の預言者とヤハウェの預言者が競った箇所がある。
つまり、もともと預言者という文化が下敷きにあったから旧約聖書の神話は生まれ、「真の神、最も力を持つのはウチの神(ヤハウェやアッラー)です」と主張する必要があったわけだ。
しかし、預言者というのは基本的にセム語圏の文化のようで、古代のマリ王国やバビロニア、シリア・パレスチナ近辺と、一部ヒッタイトにも見られるが、古代エジプトには預言者が居た形跡がない。
古代エジプト文学に「ネフェルティの予言」というものがあるが、これは明確に「予」言、つまり神に頼らずに未来予測をしたことにされている。
ネフェルティはバステト女神の女神官だが、女神から未来を授かったという描写は出てこない。
また、この「ネフェルティの予言」自体、文学に分類されており、実際には後世の創作と考えられている。過去に設定した舞台で女神官に「将来、王家が断絶して別の王に引き継がれます」と予言させることで、王朝の移り変わりを正当化する目的で作られたものだという解釈だ。
それに対し、「預」言者たちの文書はリアルタイムに国難についての助言を求めている。
マリではバビロニアに攻め滅ぼされる直前に預言者の助言を求めているし、ヒッタイトでは王が重い病気にかかった際にどの神の祟りなのかを聞いている。ガチで神託に頼っていたのである。
古代エジプトでは、神託に頼らなかったのだろうか?
この違いを考えてみたのだが、おそらく、古代エジプトでは「神と直接会話できるのは王のみ」という概念があったので、そのへんの神官がホイホイと神の言葉を受け取ってはならなかったのではないか。
王は神そのもの、もしくは神の息子で、地上における神の代理人とされる。神官たちは王の代理として祭祀を執り行うとされていた。
その体系上、国の将来に関わるとされる重要な事項が王をすっ飛ばして神官に下るというのはあり得ない。なので預言者がいなかったのではないかと思う。
実際には王が神官たちに助言を求めることはあったかもしれないし、王権の神聖さが弱まる末期王朝時代以降は神官が託宣に近いことをしている場面もあるが、基本的に、古代エジプトの文化では神託を神官が受ける=預言者となる、という事態は無かったと認識していいのではないか。
また、これは、神々のランクが明確に国家の大神と地元ローカルの神に分かれていたことも関係しているかもしれない。
メソポタミアでは、「個人神」という概念があり、イナンナやエンキ、アン、シャマシュなどのような有名な大神とは別に、個人的に信仰する名前しか分からない小さな神々がいた。一般電は、まず、この個人神に訴え、個人神が大神たちにとりなしにゆくというシステムになっていた。
古代エジプトにはこのシステムがなく、地域神、日本でいうと近所にあるお地蔵さんや小さな神社みたいな、その地域を守護する神というのがいて、これが個人神に該当した。ただし、この神は大神たちへの執り成しをするわけではない。地域限定で守護の力を発揮してくれる神である。
これは、古代のメソポタミアやシリア・パレスチナ、ヒッタイトなどには定住農民ではない住民が一定数いて、地域に縛られずに連れ歩ける神が必要だったことも関係していると思う。
マリ王国には半遊牧民がいたし、メソポタミアには遊牧民の侵入が定期的にあったし、ヒッタイトにはアッシリア商人に代表される移住生活民がいる。
エジプトはほとんどが定住農民で、生まれ育った地域を離れることがめったにない生活スタイルである。
前者には個人神を連れ歩く必要があり、後者はエリア指定の守護神がいればいい。
預言、神託の中には、個人神が「神々の会議でこういう話を聞いてきました。こっそり教えてあげますね」という形式のものも多い。個人神は個人の神であり、守護神としてついている人間と会話しても問題ない。
エジプトの地域神は、国家の趨勢のような大きな話には関わっていないので、地元の氏子と会話することがあっても、預言や神託のような重要なことは告げず、教えてくれるとしても「居なくなった牛、沼地の向こうにいってるよ」くらいの小さなことだったのではないだろうか。これは、記録に残るような立派な「預言者」の仕事にはならない。
というわけで、まとめると、古代エジプトには預言者文化がなく、預言者になり得るのは、タテマエとして王だけだったので、セム語圏に特有の預言者文化が成立する下敷きが無かった。というのが、自分の意見となる。
隣どうしとはいえ、エジプトとメソポタミアは宗教構造が全然違う。これは気づくと、わりと重要なポイントかなと思う。
有名どころではイエスやムハンマドといった預言者がいるが、彼らの前に、多くの神に属する多くの預言者たちがおり、たとえば、旧約聖書では、バアル神の預言者とヤハウェの預言者が競った箇所がある。
つまり、もともと預言者という文化が下敷きにあったから旧約聖書の神話は生まれ、「真の神、最も力を持つのはウチの神(ヤハウェやアッラー)です」と主張する必要があったわけだ。
しかし、預言者というのは基本的にセム語圏の文化のようで、古代のマリ王国やバビロニア、シリア・パレスチナ近辺と、一部ヒッタイトにも見られるが、古代エジプトには預言者が居た形跡がない。
古代エジプト文学に「ネフェルティの予言」というものがあるが、これは明確に「予」言、つまり神に頼らずに未来予測をしたことにされている。
ネフェルティはバステト女神の女神官だが、女神から未来を授かったという描写は出てこない。
また、この「ネフェルティの予言」自体、文学に分類されており、実際には後世の創作と考えられている。過去に設定した舞台で女神官に「将来、王家が断絶して別の王に引き継がれます」と予言させることで、王朝の移り変わりを正当化する目的で作られたものだという解釈だ。
それに対し、「預」言者たちの文書はリアルタイムに国難についての助言を求めている。
マリではバビロニアに攻め滅ぼされる直前に預言者の助言を求めているし、ヒッタイトでは王が重い病気にかかった際にどの神の祟りなのかを聞いている。ガチで神託に頼っていたのである。
古代エジプトでは、神託に頼らなかったのだろうか?
この違いを考えてみたのだが、おそらく、古代エジプトでは「神と直接会話できるのは王のみ」という概念があったので、そのへんの神官がホイホイと神の言葉を受け取ってはならなかったのではないか。
王は神そのもの、もしくは神の息子で、地上における神の代理人とされる。神官たちは王の代理として祭祀を執り行うとされていた。
その体系上、国の将来に関わるとされる重要な事項が王をすっ飛ばして神官に下るというのはあり得ない。なので預言者がいなかったのではないかと思う。
実際には王が神官たちに助言を求めることはあったかもしれないし、王権の神聖さが弱まる末期王朝時代以降は神官が託宣に近いことをしている場面もあるが、基本的に、古代エジプトの文化では神託を神官が受ける=預言者となる、という事態は無かったと認識していいのではないか。
また、これは、神々のランクが明確に国家の大神と地元ローカルの神に分かれていたことも関係しているかもしれない。
メソポタミアでは、「個人神」という概念があり、イナンナやエンキ、アン、シャマシュなどのような有名な大神とは別に、個人的に信仰する名前しか分からない小さな神々がいた。一般電は、まず、この個人神に訴え、個人神が大神たちにとりなしにゆくというシステムになっていた。
古代エジプトにはこのシステムがなく、地域神、日本でいうと近所にあるお地蔵さんや小さな神社みたいな、その地域を守護する神というのがいて、これが個人神に該当した。ただし、この神は大神たちへの執り成しをするわけではない。地域限定で守護の力を発揮してくれる神である。
これは、古代のメソポタミアやシリア・パレスチナ、ヒッタイトなどには定住農民ではない住民が一定数いて、地域に縛られずに連れ歩ける神が必要だったことも関係していると思う。
マリ王国には半遊牧民がいたし、メソポタミアには遊牧民の侵入が定期的にあったし、ヒッタイトにはアッシリア商人に代表される移住生活民がいる。
エジプトはほとんどが定住農民で、生まれ育った地域を離れることがめったにない生活スタイルである。
前者には個人神を連れ歩く必要があり、後者はエリア指定の守護神がいればいい。
預言、神託の中には、個人神が「神々の会議でこういう話を聞いてきました。こっそり教えてあげますね」という形式のものも多い。個人神は個人の神であり、守護神としてついている人間と会話しても問題ない。
エジプトの地域神は、国家の趨勢のような大きな話には関わっていないので、地元の氏子と会話することがあっても、預言や神託のような重要なことは告げず、教えてくれるとしても「居なくなった牛、沼地の向こうにいってるよ」くらいの小さなことだったのではないだろうか。これは、記録に残るような立派な「預言者」の仕事にはならない。
というわけで、まとめると、古代エジプトには預言者文化がなく、預言者になり得るのは、タテマエとして王だけだったので、セム語圏に特有の預言者文化が成立する下敷きが無かった。というのが、自分の意見となる。
隣どうしとはいえ、エジプトとメソポタミアは宗教構造が全然違う。これは気づくと、わりと重要なポイントかなと思う。