現代人、死に方は選べないが死んだあとに起きることは「一生の集大成である」。葬式ラッシュの一年をふりかえり…

今年は、なんかやたらと葬式が多かった。
親族だったり、近所の人だったり、元同僚や、実家方面のかつての同級生だったり。喪服と暑すぎる夏の記憶が重なって、いちばん暑かった時期の記憶が汗とともに軽く飛んでいる。

年齢も、死因も死に方も様々だった。そして何より感じたのは、死後に起きる出来事がものすごくバラバラだったことである。

たとえば、友人にすら悩みを打ち明けずに一人でひっそりと死んでしまった人がいる。
親族は誰も悼まず、葬式にも友人知人は呼ばれなかったが、訃報を聞いた友人知人は事後に悼む会を開いた。
肉親には嫌われていたが、外に作った仲間からは好かれていたパターンだ。

かたや、妻子に恵まれ、親族は立派な葬式を営んでいたが、近所付き合いや会社の同僚関係は最悪で、親族以外はほとんど葬式に来ないか、焼香だけして逃げるように立ち去っていく会もあった。
これは逆に、肉親しか繋がりが残らなかったパターン。

好き放題に生きてぶっ倒れてそのまま往生、汚部屋のお掃除や荒れ果てた庭などの後始末は親族や近隣の人たちがめちゃめちゃ頑張り、相続手続きも面倒になって相続放棄されてそのまま封印された人もいた。
本人は楽しい人生だったかもしれないが、残された者が悲惨なパターン。

実に色々である。人生色々。
それらの「最終回のそのあと」を見てきて思ったことは、全ての「結末」は、その人の人生そのものの集大成である、ということだった。


どんなにお金を持っていても、健康に気を遣っていても、ある日とつぜん倒れることはあるかもしれないし、事故に遭ってしまうかもしれない。死に方は選べない。いつお迎えが来るか、むしろお迎えとか無しに後ろからあの世にドーンされるかもしれないが、この世と切れる時がいつ来るのかは、誰にも分からない。

ただ、死んだあとに起きることは、人生の総決算なので、死ぬ前から決まっていることなのだ。

親兄弟との縁が切れてたら、遺体の引き取り手がなく葬式すら無いかも知れない。誰一人友達いなければ葬式に友達は来ない。残す財産が無ければ相続は発生しない。
ペットを飼っていれば道連れにしてしまう可能性もあるし、死ぬ前にボケたとか、身動きとれない状態になったとかだと、誰かの手を借りたり、迷惑をかけながら力尽きるかもしれない。
死後に家を片付けるのは誰か、その時どのくらい散らかっているか。何が残るのか。悼まれるのか。せいせいしたと言われるのか。そもそも誰も何の感情も抱いてくれないのか。

葬式で見聞きしたものにしろ、単なる訃報として知ったことにしろ、「死後に起きたこと」は、確かに、その人の人生そのものの集大成であり、してきたことの結果だった。因果応報とはこういうものか…と思うところもあった。

自分が死ぬ時は、せめて誰にも迷惑かけず、きれいに死んでスッキリ爽やかなエピローグを迎えたいな…と、そんなことを思った一年でした。

いや、まだだいぶ生きるつもりなんですけどねw



ひとつ言うと、お香典と夏用の涼しい喪服と交通費でだいぶ出費がかさんだのは、ちょっと痛かった。
人が死ぬのって、なんであんなに金かかるんでしょうね?? いやほんと。
高齢の親族はこれでだいたい一巡したけれど、死亡数が出生数を上回っている現代では、今後もおめでたよりは葬式のほうに金を吸い取られていくんだろうな。