シェムリアップ(2) アンコール遺跡群に見る支配者の思想は世界共通…ただし遺跡の作り方が違う
出発前に、カンボジアの密林寺院群に、古代エジプトのピラミッドと共通する思想は読み取れるのかということを考えていた。
で、今回、現地にいって確かめてみて、似てるところと違うところがあるなと思ったので内容を纏めておく。
●寺院に戦勝記念の彫り込みがある
これエジプトでいうカデシュの戦いのレリーフだな? と思ったのがバイヨン寺院の壁面。ジャヤーヴァルマン7世がチャンパ族に勝利した記念に彫り込んだものだという。

エジプトの戦勝記念レリーフは王が馬二頭立てのチャリオットに乗ってるが、こちらは王が乗るのはゾウ戦車。時代が12世紀後半なので馬に載っている騎兵もいる。
エジプトのレリーフには外国人傭兵(のちに「海の民」と呼ばれる諸民族)がいるが、こちらも傭兵がいる。中国人である。髪型がひっつめ、耳が短いのでそうだと分かる。ゾウさんに乗ってる耳が長いのがクメール人。


こちらが敵のみなさん。被り物をしている。
壁画の中に合戦シーンがあり、敵味方の民族がわかりやすく描かれているところや、出陣→合戦→勝利→宴会 という画面の推移も戦勝記念碑でよく見るパターン。このへん、やることはどこの文化圏の支配者も同じだなぁと思った。

仏教の感覚だと、わざわざ寺院の壁面に戦いで敵皆殺しにしたシーンはいいのか? と思うところだが、ヒンドゥー教+仏教の混じり合ったシェムリアップの寺院群には、戦いのシーンは、ここの他にもたくさんあった。実際の戦いだけでなく、ラーマーヤナなど神話の戦いシーンを描いたものもある。
●寺院の材質はほぼ砂岩
対して、これはエジプトとは違うな…と思ったのが、レリーフの彫り込みが浅い・王名がレリーフ内には刻まれていない・風化しやすい砂岩で作られている というところ。つまり記録を永遠に留めようという意思は感じられない。
「永遠」にひたすらこだわり、文字には魔力が宿ると考え、文字によって執拗に王名と王の業績を讃えようとしたエジプトと違い、諸行無常な感覚である。

現地には、台風はないが雨季があり、雨がかなり降る。どの遺跡にも排水設備があり、屋根は急な傾きを持っていて雨水を流せるように作られている。外壁のレリーフは当然、雨ですり減っていくはずである。
なのに外壁に大事なレリーフ彫ってるのは、別に減ってもいいや的な感覚なのだろう。
そして、彫り込みが浅い=次の王に転用されることを恐れていない、改変されるとも思っていない。
これが災いして、国教がヒンドゥー教と仏教の間で揺れ動くと、仏教的なシンボルは根こそぎ削られてしまう結果ともなった。
下は、仏様がいたところの像部分だけ削られてしまった空間である。見てのとおりレリーフが浅いのと、意思が柔らかいので、それほど手間はかからなかったと思う。
エジプトの遺跡だとここまで簡単に削れないので、キリスト教時代になって像が削られるときも神や王の「顔」の部分だけ削るという手法が使われた。

あと、文字はこんな感じ。
文字もそれほどガッチリ掘り込まれているわけではないので、改変しようと思えば簡単だったはず。(でも改変はされていない)
なお、文字の綺麗に残っている碑文は、シェムリアップの街中にある国立博物館の中に保存されていた。そちらでは碑文に実際に読み上げる音声がついているので、いちど聞いてみると面白いかも。

●寺院の中に墓がある
王母に捧げられたタ・プローム寺院の中にはお墓があった。中央の塔の中心部がそう。
ただし骨は現存していない。デッカい仏塔の中に骨を収めるスペース作るという発想。火葬が基本なので、埋葬の習慣は日本に近い。
巨大なモニュメント=墓、という思想についてはエジプトと共通だが、どちらかというとインドから来た発想かなとも思う。

●遺跡の石の転用はされていない
面白いのは、遺跡の石材は後世に転用されず、寺院が放棄されるとそのまま森に埋もれてしまったというところ。これはエジプトとは全然違うる
どちらかというと、同じ熱帯雨林にあるマヤの遺跡と似ている。おそらく気候条件が大きい。
現地民の家は基本的に木材で作るため、後世の村人たちも転用する用事がなく、石が持ち出されるようになったのはフランス人が遺跡を再発見して美しいレリーフの価値に気づいてからだという。
ベンメリアなど幾つかの遺跡はまだ密林と一体化した状態で残されているが、それを見ると、密林の成長速度の速さを思い知る。
遺跡が放棄されてから最大で500年なので、これらの木は樹齢500年程度のはず。それでこれなので…。木の根っこであっという間に破壊されてしまうんだなあ。


元々、柔らかい石が多いのもあって、転用するより新しく切り出してくるほうが早いっていうのもあったのだろう。
また、寺院と寺院の間がかなり離れているので、狭い地域に何度も建造物を作り直す文化圏とは考え方が違っていたんだと思う。
****
というわけで、エジプトの遺跡群との類似点、相違点を考えてみた。
ざっくりの概要で言うと、同じなところは世界のえらい人に共通な行動パターン、違うところは宗教や文化の差異に根ざしていると言えると思う。
*******
まとめ読みはこちら
で、今回、現地にいって確かめてみて、似てるところと違うところがあるなと思ったので内容を纏めておく。
●寺院に戦勝記念の彫り込みがある
これエジプトでいうカデシュの戦いのレリーフだな? と思ったのがバイヨン寺院の壁面。ジャヤーヴァルマン7世がチャンパ族に勝利した記念に彫り込んだものだという。

エジプトの戦勝記念レリーフは王が馬二頭立てのチャリオットに乗ってるが、こちらは王が乗るのはゾウ戦車。時代が12世紀後半なので馬に載っている騎兵もいる。
エジプトのレリーフには外国人傭兵(のちに「海の民」と呼ばれる諸民族)がいるが、こちらも傭兵がいる。中国人である。髪型がひっつめ、耳が短いのでそうだと分かる。ゾウさんに乗ってる耳が長いのがクメール人。


こちらが敵のみなさん。被り物をしている。
壁画の中に合戦シーンがあり、敵味方の民族がわかりやすく描かれているところや、出陣→合戦→勝利→宴会 という画面の推移も戦勝記念碑でよく見るパターン。このへん、やることはどこの文化圏の支配者も同じだなぁと思った。

仏教の感覚だと、わざわざ寺院の壁面に戦いで敵皆殺しにしたシーンはいいのか? と思うところだが、ヒンドゥー教+仏教の混じり合ったシェムリアップの寺院群には、戦いのシーンは、ここの他にもたくさんあった。実際の戦いだけでなく、ラーマーヤナなど神話の戦いシーンを描いたものもある。
●寺院の材質はほぼ砂岩
対して、これはエジプトとは違うな…と思ったのが、レリーフの彫り込みが浅い・王名がレリーフ内には刻まれていない・風化しやすい砂岩で作られている というところ。つまり記録を永遠に留めようという意思は感じられない。
「永遠」にひたすらこだわり、文字には魔力が宿ると考え、文字によって執拗に王名と王の業績を讃えようとしたエジプトと違い、諸行無常な感覚である。

現地には、台風はないが雨季があり、雨がかなり降る。どの遺跡にも排水設備があり、屋根は急な傾きを持っていて雨水を流せるように作られている。外壁のレリーフは当然、雨ですり減っていくはずである。
なのに外壁に大事なレリーフ彫ってるのは、別に減ってもいいや的な感覚なのだろう。
そして、彫り込みが浅い=次の王に転用されることを恐れていない、改変されるとも思っていない。
これが災いして、国教がヒンドゥー教と仏教の間で揺れ動くと、仏教的なシンボルは根こそぎ削られてしまう結果ともなった。
下は、仏様がいたところの像部分だけ削られてしまった空間である。見てのとおりレリーフが浅いのと、意思が柔らかいので、それほど手間はかからなかったと思う。
エジプトの遺跡だとここまで簡単に削れないので、キリスト教時代になって像が削られるときも神や王の「顔」の部分だけ削るという手法が使われた。

あと、文字はこんな感じ。
文字もそれほどガッチリ掘り込まれているわけではないので、改変しようと思えば簡単だったはず。(でも改変はされていない)
なお、文字の綺麗に残っている碑文は、シェムリアップの街中にある国立博物館の中に保存されていた。そちらでは碑文に実際に読み上げる音声がついているので、いちど聞いてみると面白いかも。

●寺院の中に墓がある
王母に捧げられたタ・プローム寺院の中にはお墓があった。中央の塔の中心部がそう。
ただし骨は現存していない。デッカい仏塔の中に骨を収めるスペース作るという発想。火葬が基本なので、埋葬の習慣は日本に近い。
巨大なモニュメント=墓、という思想についてはエジプトと共通だが、どちらかというとインドから来た発想かなとも思う。

●遺跡の石の転用はされていない
面白いのは、遺跡の石材は後世に転用されず、寺院が放棄されるとそのまま森に埋もれてしまったというところ。これはエジプトとは全然違うる
どちらかというと、同じ熱帯雨林にあるマヤの遺跡と似ている。おそらく気候条件が大きい。
現地民の家は基本的に木材で作るため、後世の村人たちも転用する用事がなく、石が持ち出されるようになったのはフランス人が遺跡を再発見して美しいレリーフの価値に気づいてからだという。
ベンメリアなど幾つかの遺跡はまだ密林と一体化した状態で残されているが、それを見ると、密林の成長速度の速さを思い知る。
遺跡が放棄されてから最大で500年なので、これらの木は樹齢500年程度のはず。それでこれなので…。木の根っこであっという間に破壊されてしまうんだなあ。


元々、柔らかい石が多いのもあって、転用するより新しく切り出してくるほうが早いっていうのもあったのだろう。
また、寺院と寺院の間がかなり離れているので、狭い地域に何度も建造物を作り直す文化圏とは考え方が違っていたんだと思う。
****
というわけで、エジプトの遺跡群との類似点、相違点を考えてみた。
ざっくりの概要で言うと、同じなところは世界のえらい人に共通な行動パターン、違うところは宗教や文化の差異に根ざしていると言えると思う。
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まとめ読みはこちら