「ヨーロッパ最古の都市文明」、ククテニ・トリピリア文化について/主要遺跡がウクライナにあるので発掘進まないらしい…
あまり有名ではないのだが、ルーマニアからウクライナにかけての地域に、ククテニ・トリピリア文化と名付けられた文化圏がある。紀元前5000年くらいから紀元前2000年くらいまで栄えた都市文明で、ヨーロッパ圏で都市を持つ文化としては最古と言われる。
ぶっちゃけ「ヨーロッパ」という現代の括りで最古と喧伝することに意味は見いだせないし、遺物の雰囲気がイラン高原に似てるからどっかで人の繋がりあるんじゃね? という気もするのだが、ヨーロッパの考古学者のちょっとした自尊心みたいなものだろうからあまりツッコまずに置いておく。
そのククテニ・トリピリアの主要な遺跡の発掘が、ロシアの侵攻によって進まない…という話を見かけたので、改めて場所を確認してみた。

Who built Europe’s first cities? Clues about the urban revolution emerge
https://www.nature.com/articles/d41586-024-04216-1
主要な遺跡の場所ここ、キエフのすぐ南ですね。うーんこれは確かに、ちょっと厳しい。
そして、元々発見されたの自体が19世紀で、わりと最近まで認識されることのなかった文化らしい。

この文化の特徴は、「巨大なモニュメントがない」こと。つまり、権力者がピラミッドや大神殿のような目立つ建造物を作っていない。
発見が遅れたのも、そのためとされる。
ただ、遺跡の規模はかなり大きく、最大3,000件もの家が一箇所に集まっていたという。
それらの家の大きさはほとんど変わらないため、貴族階級や富裕層のいない平等な社会だったのでは、と言われている。
また、集落の中心には必ず謎の空き地があり、そこには建造物の建てられていた痕跡がないという。現時点では、集会場か、牛などの家畜を共同飼育するための施設があったのでは、と考えられているらしい。

季節による移住の痕跡がないことや、人骨の分析から食料の10%くらいしか家畜を使っていないことから、定住生活で農耕と牧畜を組み合わせていたっぽい。また家の数からして最大で数万人規模の集落になるはずなのに、まとめ役がいなかったというのも微妙な感じ。
気候変動で難民化した人たちが自然に集まってきて形成された集団だった、という説もあるようだが、そうすると「xx文化」と名付けられるようなアイデンティティはこの場所でマッシュアップして形成されたことになるが、そう考えていいのかどうか。
あと、トルコの都市遺跡のように1万年くらい前でも神殿を作っている文化圏はあるし、南米のプレ・インカのように指導者層不在でも神殿を作った文明はあるので、これだけ人がいて、特別な建造物を作らないまま2000年も暮らしてたっていうのは、ちょっと不思議な気がする。生活がカツカツだったとか、気候条件が相当厳しかったとか…?
いずれにしても、調査が進まないと「なんかよくわからんけど、すげー人が集まって暮らしてた時代があるらしい」という認識止まり。
早く戦争終わって調査再開されないかな…。
ぶっちゃけ「ヨーロッパ」という現代の括りで最古と喧伝することに意味は見いだせないし、遺物の雰囲気がイラン高原に似てるからどっかで人の繋がりあるんじゃね? という気もするのだが、ヨーロッパの考古学者のちょっとした自尊心みたいなものだろうからあまりツッコまずに置いておく。
そのククテニ・トリピリアの主要な遺跡の発掘が、ロシアの侵攻によって進まない…という話を見かけたので、改めて場所を確認してみた。

Who built Europe’s first cities? Clues about the urban revolution emerge
https://www.nature.com/articles/d41586-024-04216-1
主要な遺跡の場所ここ、キエフのすぐ南ですね。うーんこれは確かに、ちょっと厳しい。
そして、元々発見されたの自体が19世紀で、わりと最近まで認識されることのなかった文化らしい。

この文化の特徴は、「巨大なモニュメントがない」こと。つまり、権力者がピラミッドや大神殿のような目立つ建造物を作っていない。
発見が遅れたのも、そのためとされる。
ただ、遺跡の規模はかなり大きく、最大3,000件もの家が一箇所に集まっていたという。
それらの家の大きさはほとんど変わらないため、貴族階級や富裕層のいない平等な社会だったのでは、と言われている。
また、集落の中心には必ず謎の空き地があり、そこには建造物の建てられていた痕跡がないという。現時点では、集会場か、牛などの家畜を共同飼育するための施設があったのでは、と考えられているらしい。

季節による移住の痕跡がないことや、人骨の分析から食料の10%くらいしか家畜を使っていないことから、定住生活で農耕と牧畜を組み合わせていたっぽい。また家の数からして最大で数万人規模の集落になるはずなのに、まとめ役がいなかったというのも微妙な感じ。
気候変動で難民化した人たちが自然に集まってきて形成された集団だった、という説もあるようだが、そうすると「xx文化」と名付けられるようなアイデンティティはこの場所でマッシュアップして形成されたことになるが、そう考えていいのかどうか。
あと、トルコの都市遺跡のように1万年くらい前でも神殿を作っている文化圏はあるし、南米のプレ・インカのように指導者層不在でも神殿を作った文明はあるので、これだけ人がいて、特別な建造物を作らないまま2000年も暮らしてたっていうのは、ちょっと不思議な気がする。生活がカツカツだったとか、気候条件が相当厳しかったとか…?
いずれにしても、調査が進まないと「なんかよくわからんけど、すげー人が集まって暮らしてた時代があるらしい」という認識止まり。
早く戦争終わって調査再開されないかな…。