知られざる西シベリアの文化と鉄のカーテン「西シベリアの熊まつり」
いつもの「なんか読みたいけど手元に本がねぇ!」という発作を発症し、駆け込んだ本屋で適当に目についた本を買ってきた。
西シベリアの熊まつり。
内容とか全然見ずにタイトルだけ見て手に取ったので、アイヌのイオマンテに似たやつかなーと思っていたのだが中身は全然違った。というか、とらえた熊の魂を送る祭り、というあたりは共通しているのだが、なんか芸能色が濃いというか、村祭り的というか…。
この人たち、マンモス狩り成功したあともこんな感じでみんなで集まって何日もかけて歌い騒いでなかった? マンモスがいなくなったから、次点のいちばん強敵なエモノで熊に対して同じ祭り適用してない??
なんか、そんな気がしてしまう祭りだった。

西シベリアの熊まつり: 熊の魂を癒す藝能の役割 - チモフェイ・モルダノフ, エヴドキヤ・イヴァノヴナ・ロムバンデーヴァ, 星野紘, 星野紘, 星野紘
で、読んでる途中で気付いたのだが、この本の舞台は「西シベリア」、ハンティ・マンシ自治管区である。つまり、日本からはかなり遠い場所になる。

タイトルだけ見て読む前はアイヌの熊送りを想像していたし、実際に本の中でアイヌとの比較も出てくるのだが、結論から言うと「差異があり、あまり似ていない」。大きくざっくりと熊に対する崇拝儀礼と表現すれば似ているが、祀る対象としての熊の霊に対する態度が違うのである。
で、その理由はおそらく、この地理的な距離の遠さにあると思う。同じシベリアでも、東シベリアの文化は日本の北海道アイヌに近い。西シベリアはどっちかというとヨーロッパよりの概念。というか森に住む悪霊とかは「カレワラ」に出てくるフィンランド神話の世界観に通じているので、北極圏全般の共通概念なのかも。
より具体的に言うと、日本のアイヌの言う熊の霊”カムイ”は、日本神話の世界における神々の一種とみなせる。自然界のあらゆる場所に神を見出す日本の神話観で解釈できる。
西シベリアの熊の霊は、高次元の絶対的存在として位置づけられた神の息子であり、全知全能に近い最高神を想定する神話体系の中に組み込まれている。
同じ熊送りでも、ベースになる文化圏が違うと、祭り方や付随する神話がこんなに変わるのか、というのは、なかなかおもしろい発見だった。東洋的な考え方と西洋的な考え方の違いとでも言うのか。シベリアのどのへんが考え方の境界線になるのかは気になるところだ。
そしてもう一つ、著者が書いている「1998年にシベリアで調査したが、その数年前まで鉄のカーテンでソ連の情報は全然なかった。研究はじめてから四半世紀しか経ってない」という話。
鉄のカーテンというのは、かつてロシアがソビエト連邦という名前だった頃に、東西冷戦で情報が遮断されていたことを指している。
ソ連の解体は1991年なので、それまで、ソ連内部である西シベリアの情報は外に出てこず、東西冷戦の終結後になってようやく情報が出始め、研究者の目にとまった、ということらしい。
つまり、ソ連解体までは、シベリアの田舎に日本人が旅行に行くこともなく、研究者がカメラ持って入り込むことも出来なかったんだなと理解した。なんか…大変な時代だったんだな…。今も別の理由で研究者が渡航しづらくなってるけど…。
民俗学の研究も、政治に左右されるものなんだなという苦労をちょっと理解した。
いやしかし、これかなり貴重な記録なのでは。ロシアの伝統芸能も今後失われていく可能性はあるわけだし、こうして日本語で読めるのってすごいよな。
シベリアのローカルな神話伝承とか、ロシアの少数民族文化とか好きな人にはオススメできる内容だと思います。
個人的なワンポイント:
とらえた熊を解体して、胃の中などを調べて、人を食った形跡があったら、そのまま祀らずに破棄する。
人食った熊はやっぱダメらしいです…。
西シベリアの熊まつり。
内容とか全然見ずにタイトルだけ見て手に取ったので、アイヌのイオマンテに似たやつかなーと思っていたのだが中身は全然違った。というか、とらえた熊の魂を送る祭り、というあたりは共通しているのだが、なんか芸能色が濃いというか、村祭り的というか…。
この人たち、マンモス狩り成功したあともこんな感じでみんなで集まって何日もかけて歌い騒いでなかった? マンモスがいなくなったから、次点のいちばん強敵なエモノで熊に対して同じ祭り適用してない??
なんか、そんな気がしてしまう祭りだった。

西シベリアの熊まつり: 熊の魂を癒す藝能の役割 - チモフェイ・モルダノフ, エヴドキヤ・イヴァノヴナ・ロムバンデーヴァ, 星野紘, 星野紘, 星野紘
で、読んでる途中で気付いたのだが、この本の舞台は「西シベリア」、ハンティ・マンシ自治管区である。つまり、日本からはかなり遠い場所になる。

タイトルだけ見て読む前はアイヌの熊送りを想像していたし、実際に本の中でアイヌとの比較も出てくるのだが、結論から言うと「差異があり、あまり似ていない」。大きくざっくりと熊に対する崇拝儀礼と表現すれば似ているが、祀る対象としての熊の霊に対する態度が違うのである。
で、その理由はおそらく、この地理的な距離の遠さにあると思う。同じシベリアでも、東シベリアの文化は日本の北海道アイヌに近い。西シベリアはどっちかというとヨーロッパよりの概念。というか森に住む悪霊とかは「カレワラ」に出てくるフィンランド神話の世界観に通じているので、北極圏全般の共通概念なのかも。
より具体的に言うと、日本のアイヌの言う熊の霊”カムイ”は、日本神話の世界における神々の一種とみなせる。自然界のあらゆる場所に神を見出す日本の神話観で解釈できる。
西シベリアの熊の霊は、高次元の絶対的存在として位置づけられた神の息子であり、全知全能に近い最高神を想定する神話体系の中に組み込まれている。
同じ熊送りでも、ベースになる文化圏が違うと、祭り方や付随する神話がこんなに変わるのか、というのは、なかなかおもしろい発見だった。東洋的な考え方と西洋的な考え方の違いとでも言うのか。シベリアのどのへんが考え方の境界線になるのかは気になるところだ。
そしてもう一つ、著者が書いている「1998年にシベリアで調査したが、その数年前まで鉄のカーテンでソ連の情報は全然なかった。研究はじめてから四半世紀しか経ってない」という話。
鉄のカーテンというのは、かつてロシアがソビエト連邦という名前だった頃に、東西冷戦で情報が遮断されていたことを指している。
ソ連の解体は1991年なので、それまで、ソ連内部である西シベリアの情報は外に出てこず、東西冷戦の終結後になってようやく情報が出始め、研究者の目にとまった、ということらしい。
つまり、ソ連解体までは、シベリアの田舎に日本人が旅行に行くこともなく、研究者がカメラ持って入り込むことも出来なかったんだなと理解した。なんか…大変な時代だったんだな…。今も別の理由で研究者が渡航しづらくなってるけど…。
民俗学の研究も、政治に左右されるものなんだなという苦労をちょっと理解した。
いやしかし、これかなり貴重な記録なのでは。ロシアの伝統芸能も今後失われていく可能性はあるわけだし、こうして日本語で読めるのってすごいよな。
シベリアのローカルな神話伝承とか、ロシアの少数民族文化とか好きな人にはオススメできる内容だと思います。
個人的なワンポイント:
とらえた熊を解体して、胃の中などを調べて、人を食った形跡があったら、そのまま祀らずに破棄する。
人食った熊はやっぱダメらしいです…。