アナトリアからエジプトへの移民「カリア人」について

末期王朝時代のメンフィス周辺にあった、異国人コミュニティの一つに「カリア人」という見慣れない名前があったので、ちょっと調べてみた。
英語で書くとCarians、もとはアナトリア西南部の住民だ。戦士、船乗りとして知られ、エジプトには傭兵として雇われてやって来たのが住み着いていたと考えられるという。
使用文字はギリシャ語。ただし書いてるのはカリア語。音は分かるがカリア語自体があまり解読されていないらしい。

地域的にはルウィ語圏なのでルウィ語を失った可能性があるが、ギリシャ側の記録でヘロドトスとかが言うところによれば、もともとキクラデス諸島のあたりを荒らしてた海賊まがいの人々が陸地に追いやられ定住したものだとされている。倭寇みたいな感じだったのかもしれない。

紀元前14世紀頃のヒッタイトの記録に出てくる「カリキヤ」「カルキヤ」と呼ばれる名前が最初で、ヒッタイトの王とやりとりしているため、おそらく、その時期にはこの場所に勢力圏を確立していたのだろうとされている。

Caria.jpg

メンフィスに隣接する墓地、サッカラ地域からは、カリア人の墓標が多く出土している。
こちらは大英博物館が所蔵するもの。拡大すると、オシリス神の下にギリシャ文字で人物名などが書き込まれているのが分かる。
大英博物館の遺物ページはこちら

エジプトのものに似せて作ってはいるが、構図や雰囲気からしてもメンフィスのエジプト人の職人が作ったようには見えないため、真似したギリシャ人かカリア人の職人の手によるものだろう。(同じ時期、ギリシャ人も傭兵としてたくさん移住してきていた)

sdd157.png

エジプト風の墓を作るくらいなので、現地の文化には順応していたし、文字通り”エジプトに骨を埋める”つもりで移住してきていたのだろう。
メンフィス周辺からは、他にもシリア人やギリシャ人、アッシリア人など様々なヒミュニティに属したと思われる人たちの墓が見つかっているので、末期王朝時代には、かなり国際色豊かな地域になってたんだろうなと思う。

*****
余談

この「カリア人」、実は紀元前13世紀頃に既にエジプトの記録に登場する。
いわゆる「海の民」と呼ばれる民族集団は、エジプトの記録では実際には複数の民族名として書かれているが、そのリストの中にカルキヤという名前が出てくるのだ。ただし、出てくるのはラメセス2世のカデシュの戦いの記念碑文の中だけで、回数も少ないので、おそらく、当時はそれほど主要な傭兵供給元では無かった。

今更だけど「海の民」についてちょっとだけまとめておく。これは民族名ではないですよ。
https://55096962.seesaa.net/article/202011article_7.html