世界帝国の中の文化・美術の交錯「帝国スペイン 交通する美術」

スペインは16世紀以降、「世界帝国」というにふさわしい広大な版図を抱える帝国を築く。その帝国スペインの中における、異なる文化が組み合わさった美術様式についての本である。

帝国スペイン 交通する美術 - 岡田裕成, 岡田裕成
帝国スペイン 交通する美術 - 岡田裕成, 岡田裕成

切り口はいくつかある。

・レコンキスタ後、スペイン領内に残ったイスラム様式とキリスト教文化の融合
・ハプスプルグ帝国の本拠地として、帝国領内の文化融合
・南米植民地の文化
・大航海時代のアジアとのやりとり

改めて考えて見ると、確かに中世スペインは、帝国領内だけでも多くの文化圏を抱えているし、植民地もいれるとアジア圏まで含む、まさに「世界帝国」なのだった。
たとえば、マニラガレオンで南米に持ち込まれた日本の漆器に十字架つけてキリスト教文化の小箱に仕立てられていたり、屏風がインド経由で本国に運ばれたりしているのを見ると、なるほどなあと思う。そういや東インドにスペイン領あったなあ、とか、アジアに香辛料求めてきてたなあ、とか。

だが、一番おもしろいと思ったのは、レコンキスタ後のスペインで、イスラム様式の建築物が再利用されていた、という話だった。
11世紀まで、イベリア半島は後ウマイヤ朝の勢力圏だったのだ。当然、各地にモスクが建っている。そのモスクを、制服直後のスペインは聖堂へと改修して使っていたという。

これは、オスマン帝国がイスタンブールのハギア=ソフィア聖堂をモスクに改修したのと逆の動きである。
聖堂をモスクにする場合はメッカの方角に向けてキブツを設置すればいいが、モスクを聖堂にする場合は、礼拝用の祭壇を設置し、内陣や身廊を設定することになるらしい。で、イベリア半島では多くの場合、東向きに祭壇を設置して、もともとのモスクとは礼拝の向きを変えていたらしい。
11世紀以降、16世紀くらいまで、もともとのモスクの雰囲気を残しつつ再利用された聖堂が多かったらしい。
で、16世紀以降になると、モスクを取っ払って完全に建て直したり、モスクらしさを改変したりしていく動きになるという。

今は鐘楼塔になっているセビリアの「ヒラルダの塔」も元はミナレットで、最上部を作り変えたものだというのは知らなかったので、へえーっと思った。言われてみると確かに、大聖堂に対する位置はミナレットだな…。


また、レコンキスタ後、スペインには多くのイスラム教文化が残っていたという。
残留したイスラム教徒をムデハル、強制改宗されられたイスラム教徒をムリスコといい、彼らはキリスト教徒と長らく共存し続けた。そして、イスラム教様式は既に土着文化ともなっていたので、キリスト教徒がそれを利用することもあったという。
つまり、イスラム教要素がある美術の作者が必ずしもムデハルやムリスコとは限らない。また、イスラム教徒の全てがアラビアから渡ってきた人なはずもなく、地元民がイスラム教に改修して暮らしていたケースもあるので、宗教だけでは人の出身地は区別出来ない。

ユダヤ教も含め、イベリア半島は複数の宗教要素がまじりあう共存の世界だったのだ。
(ユダヤ人追放が15世紀だから、共存が崩れる潮目はそのあたりなのだろう。)


この本には植民地となった南米の事例も出てきたが、その部分は中の人、ペルーに行った時に実際に色々見てきた。キリストの最後の晩餐のテーブルに出てくるのが、現地でごちそうとして食べられるテンジクネズミ(クイ)になってる絵とかは、分かりやすい事例だろう。
一つの帝国の中に異なる文化圏が交わる時、様々な異なる美術要素が組み合わされる。逆に言えば、組み合わされた要素は、どれほど距離があろうとも、互いに情報交換できるところに位置している。
なかなかおもしろい視点を勉強させてもらった本だった。