メソポタミアの古代の農業用灌漑水路、エリドゥ周辺の調査で明らかに

前提として、メソポタミア文明の発達した地域は雨が少なく、雨だけでは主食の麦を育てられない地域である。
エジプトほどカラッカラではないものの、川からの水に頼る灌漑農業をしているのは同じで、畑には水を引き込むための水路が敷設されていた。

だが、長年の川の流れで運ばれた土によって埋もれるか、古代以降に作られた集落に上書きされるかして、川沿いの遺跡周辺で古代の水路を見分けることは難しいとされてきた。人が住み続けている地域だと、後世のやペルシアやパルティアなどの時代に作られた水路で上書きされているところがほとんどだという。

そこで、古代以降は人が住んでいない地域、川の流れが変わって放棄され、現在では砂漠のど真ん中になっている古代都市エリドゥ周辺で調査してみたよ! というのが、今回紹介する研究である。

Identifying the preserved network of irrigation canals in the Eridu region, southern Mesopotamia
https://www.cambridge.org/core/journals/antiquity/article/identifying-the-preserved-network-of-irrigation-canals-in-the-eridu-region-southern-mesopotamia/2B2BE82BACA8A2BEFCB4C43A140419C5?utm_campaign=shareaholic&utm_medium=whatsapp&utm_source=im

地図を見ると川の支流が消えて完全に砂漠の中になっているので、確かにこれなら古代の水路は残っていても不思議ではない。

dhh53.png

fig4.png

この地域に人が住んでいたのは、紀元前6,000年頃のウバイド期初期から、紀元前500年頃の新バビロニアまで。紀元前1千年紀のどこかで川の流れが変わって人が住めなくなってしまったので、より古い時代の水路痕を見つけることが出来る。
そうして明らかにされた、かつてのユーフラテス川と水路がこれ。ランドサットや地上調査を組み合わせたものらしいが、網の目のように水路が作られていることが分かる。

fig5.png

これは日本でいうと水田の間を走ってる用水路と同じで、畑に水を入れ、灌漑するために、畑と畑の間にくまなく水路か走っているという構造になる。
うーん整備するのも維持するのも大変! 集中的で組織的な農業である。でも、ここまでやらないと、この雨の少ない地域では主食が育てられないのだ。大変だ…。

fig6.png

昔からこういう形式で農業してただろうとは言われていたものの、実際の姿が見えてくると、これは確かに人が減ったらムリだと分かる。
戦争でメンテ出来なくなったり、何らかの理由で人口が減ったりしただけで詰む。同時に、人口/労働力=国力だった理由もよく分かる。
水路の遺跡は、農業主体で成立していた古代の国家の骨組みを教えてくれるものでもある。じつに興味深い研究だと思う。