色んなパワーワード・パワー概念が飛び交う比較文化学「インドの宗教とキリスト教」

おそらく神学と比較文化学の中間くらいのジャンルになると思われる本。お花見飲み会の帰りにふわっふわの足取りで何故かこれを手にして帰宅していた。ほんとに何故これを読もうと思ったのか分からないw 読みはじめてから、思ってたのとだいぶ違う内容に「???」ってなっていた。

インドの宗教とキリスト教 (講談社学術文庫) - ルードルフ・オットー, 立川武蔵, 立川希代子
インドの宗教とキリスト教 (講談社学術文庫) - ルードルフ・オットー, 立川武蔵, 立川希代子

だが、読んでいるうちに違和感の正体が分かった。実はこの本は約100年前に出版されたものの翻訳リバイバルで、ナチス・ドイツ台頭前夜のドイツに暮らしていた神学者の本なのだ。
なので、視点も知識も、喋ってる立場も100年前のもの。

初っ端から「キリスト教のライバルとなりうる宗教を探していた。それがインドの宗教である」みたいな大上段からブチかますようなことを買いているのも、当時ならでは。これが現在なら、「えっ。キリスト教を世界第一の宗教だと思ってるの? 何様???」みたいな感じになると思う。疑うことなく白人至上主義を根底に置く辺りが、とてもとても20世紀初頭らしい。

ドイツなのでマルティン・ルターの本国なわけだが、日本から学びにやって来た僧侶から「ドイツにはルターという親鸞がいる」という話を聞き、日本の仏教は宗教とまでは言えない、その源流はインドにあるのでインドのほうを調べてみよう、と思ったらしい。実際に日本から来た留学生がそんなことを言うとは想像つかないが、重要なのは、著者がそう言われたと理解し、記憶したことである。

また、インド人からは「お前は同じアーリア人なのだから本来インドの宗教を信仰しているべきなのでは?」とも言われたらしいのだが、これなどはまさに20世紀初頭の空気を表す言葉で、おそらく実際にこんなことを言うインド人はいない。(100年前にはいたのかもしれないが、少なくとも現代のインド人でこんな概念の人はいない…)
だが著者にとっては言われて当然、もしくはインド人はこう考えていると理解していたことを指している。

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ナチス・ドイツがアーリア人種の神話をぶちあげ、優生論を信じていたことはよく知られている。著者の生きた時代には、当たり前のように「アーリア人」という概念が生きていたのだな、と読み取れる。そして、ニーチェがドイツ出身だということを知っていれば、本の中で繰り返し出てくる「本当の神」とか「信仰」という言葉の意味や、著者が何を迷っているのかも分かってくる。
本全体を倒して、背後にうっすらと100年前のドイツの知識人が見ていた世界が透けて見えるのである。

その中には、現代人からすれば「勘違い」や「上から目線」、「知識不足による偏見」と表現出来てしまうものも多い。また、キリスト教のライバルを探すと言いながら、イスラームに関する記述は意図的に排除されたかの如くさっぱり出てこない。まさか100年後、ヨーロッパはイスラム教徒の移民たちに席巻され、人口の何割かが置き換わってしまうとは思わなかったのだろう。

というわけで、この本は何かを学ぶとかより、過去のドイツではどんな世界が見えていたか、どんな空気が漂っていたか、という部分を楽しむ本かなと思う。今の時代だと出てこないような発想やものの見方が結構あるので、そこは面白い。
(著者が大発見したかのように語ってる思想が「聖★お兄さん」で見たことあるネタだったりして、そこはちょっと気の毒だった)