「海の守護者」としてのイシス女神:変容したエジプト神の一つの形について
以前ベネチアに行った時、昔の船のパーツなどを展示する博物館に聖母マリアのイコンが船乗りたちのお守りとして多数展示されていたのを見た。
神話上の聖母マリアは陸路でエジプトに逃げたことはあっても、べつに海に出ていない。ぜんぜん掠りもしないのに何でマリアが船の守り神なんだよ、と不思議に思っていたのだが、その後、「エジプト女神のイシスが船の守り神になる」→「ローマがキリスト教を国教化するにあたりイシスが聖母に置き換えられた可能性がある」という流れを知り、なるほどそれならアリかなと思ってしまった。
息子ホルスを抱くイシスの姿が、イエスを抱くマリアの図像にそのまま転用されたことや、プトレマイオス朝時代に祝われていたホルス神の誕生祭がイエスの誕生日に置き換えられたことなどは以前何度か取り上げたことがあるので再度は書かない。
大地母神だったはずの女神が海に出て、船や船乗りの守護者になるというのは、なかなか面白い属性変化だと思う。
で、そもそもイシスが海の守護神になった経緯である。
元になる古代エジプトの神話では、イシスは全く海に関係していない。
海と結びつけられたのは、プトレマイオス朝になってからなのだ。

↑アレキサンドリアで発行されていた海の守り神イシスのコイン。持ってるのは船の帆、横にあるのはファロスの灯台
この変化は、幾つかの段階を踏んで起こったと考えられる。
●イシス女神と「水」の結びつけ
水=川 である。イシス女神と、夫オシリス神の属する神話はエジプト神話の中では「洪水神話群」とも呼ばれ、ナイルの増水に関連する神話と関連が深い。
たとえば、イシス女神の嘆きの涙が増水を引き起こす、みたいな話とかである。また、ナイルの水源とされたフィラエ島にはイシス女神の神殿があり、末期王朝時代以降、エジプト南部では信仰を集めていた。
[>参考
フィラエのイシス神殿、最後まで守ってたのはどうやらヌビア人だったらしい
https://55096962.seesaa.net/article/202201article_10.html
エジプトより上流地域のキリスト教圏にある「聖母マリア」伝説、もしかして一部はイシスかもしれない。
https://55096962.seesaa.net/article/202109article_16.html
●「水」から「海」へ
イシス女神が関連づけられた「水」の中には、ナイル川という地表にある川だけでなく、地の底にあるとされた原初の水「ヌン」もあった。「ヌン」は海のように広く、世界の外側に広がる水というイメージである。これはそのまま海に繋がる。
イシス女神が、ナイルの増水時期に輝くシリウス星の神格化であるソティス女神や、原初の水を体現するメヘトウェレトなどの女神と同一視されていくにつれ、ナイル川だけでなく、海も守護範囲にされていくようになる。
これは、末期王朝以降にギリシャ系の移民が増えたこととも関連しているかもしれない。
エジプト人は海にほぼ興味がなく、海をあらわす言葉すら外来語に頼るくらいで、海専門の守護神も持たなかったのだが、ギリシャ人は根本的に海洋民族で、エジプトに来るにも海を越えて来ている。海の領域の守護神は必須で、需要があったと言える。
●アレキサンドリアの主神「セラピス」の妻としてイシス女神が設定される
セラピスとは、ギリシャ系移民とエジプト土着民に共通する宗教を与えるために人為的に作られた神で、ギリシャ神話のゼウスとエジプト神話のオシリスを合体させた神格である。厳密にはちょっと違ってて他の神とかも混じっているのだが、説明面倒なので以下を参照。
この時点で、イシスは港町アレキサンドリアの守護神となった。
http://www.moonover.jp/bekkan/god/serapis.htm
●「海の守護神」としての神格
ここまで来るとあとは流れがわかりやすい。名称としては Isis Pelagia =海のイシス Isis Euploia =良き航海のイシス Isis Pharia =ファロス島のイシス、などが知られている。ファロスはもちろん灯台の築かれたアレキサンドリア沖の島のことで、「ファロスの灯台」のファロスは、のちに灯台の代名詞となっていく。現在も英語などで灯台を意味する単語は、ファロスに由来している。
全盛期のアレキサンドリアは世界有数の大都市であり、地中海世界全体から船の集まる場所である。そのアレキサンドリアの守護神、海の守護者となれば、そりゃあ船乗りたちに人気が出るし、お守りだってガッポガッポ売れるわけですよ…。
よく知られているとおり、イシス女神はローマでも大成功を収めている。キリスト教が国教化される4世紀までは、主要な神々の中にいた。
船乗りの守護者、海の守り神としてのイシスはローマ帝国内に広まっていったのである。
****
というわけで、イシスが海や船乗りの守り神になったのはプトレマイオス朝以降、アレキサンドリアの守護神に設定されてからで、信仰されたのはキリスト教国教化によって弾圧されるまでの間である。(その後も隠れてしぶとく生き残っていた形跡はあるが。)
期間にするとだいたい500年くらいの間なので、短いようでいて実はけっこう長い。
ただし、その500年の範囲は、「古代エジプト」や「エジプト神話」というよりは、その延長であるギリシャ・ローマ時代のヘレニズム的な信仰と言ったほうがよさそうだ。
神話上の聖母マリアは陸路でエジプトに逃げたことはあっても、べつに海に出ていない。ぜんぜん掠りもしないのに何でマリアが船の守り神なんだよ、と不思議に思っていたのだが、その後、「エジプト女神のイシスが船の守り神になる」→「ローマがキリスト教を国教化するにあたりイシスが聖母に置き換えられた可能性がある」という流れを知り、なるほどそれならアリかなと思ってしまった。
息子ホルスを抱くイシスの姿が、イエスを抱くマリアの図像にそのまま転用されたことや、プトレマイオス朝時代に祝われていたホルス神の誕生祭がイエスの誕生日に置き換えられたことなどは以前何度か取り上げたことがあるので再度は書かない。
大地母神だったはずの女神が海に出て、船や船乗りの守護者になるというのは、なかなか面白い属性変化だと思う。
で、そもそもイシスが海の守護神になった経緯である。
元になる古代エジプトの神話では、イシスは全く海に関係していない。
海と結びつけられたのは、プトレマイオス朝になってからなのだ。

↑アレキサンドリアで発行されていた海の守り神イシスのコイン。持ってるのは船の帆、横にあるのはファロスの灯台
この変化は、幾つかの段階を踏んで起こったと考えられる。
●イシス女神と「水」の結びつけ
水=川 である。イシス女神と、夫オシリス神の属する神話はエジプト神話の中では「洪水神話群」とも呼ばれ、ナイルの増水に関連する神話と関連が深い。
たとえば、イシス女神の嘆きの涙が増水を引き起こす、みたいな話とかである。また、ナイルの水源とされたフィラエ島にはイシス女神の神殿があり、末期王朝時代以降、エジプト南部では信仰を集めていた。
[>参考
フィラエのイシス神殿、最後まで守ってたのはどうやらヌビア人だったらしい
https://55096962.seesaa.net/article/202201article_10.html
エジプトより上流地域のキリスト教圏にある「聖母マリア」伝説、もしかして一部はイシスかもしれない。
https://55096962.seesaa.net/article/202109article_16.html
●「水」から「海」へ
イシス女神が関連づけられた「水」の中には、ナイル川という地表にある川だけでなく、地の底にあるとされた原初の水「ヌン」もあった。「ヌン」は海のように広く、世界の外側に広がる水というイメージである。これはそのまま海に繋がる。
イシス女神が、ナイルの増水時期に輝くシリウス星の神格化であるソティス女神や、原初の水を体現するメヘトウェレトなどの女神と同一視されていくにつれ、ナイル川だけでなく、海も守護範囲にされていくようになる。
これは、末期王朝以降にギリシャ系の移民が増えたこととも関連しているかもしれない。
エジプト人は海にほぼ興味がなく、海をあらわす言葉すら外来語に頼るくらいで、海専門の守護神も持たなかったのだが、ギリシャ人は根本的に海洋民族で、エジプトに来るにも海を越えて来ている。海の領域の守護神は必須で、需要があったと言える。
●アレキサンドリアの主神「セラピス」の妻としてイシス女神が設定される
セラピスとは、ギリシャ系移民とエジプト土着民に共通する宗教を与えるために人為的に作られた神で、ギリシャ神話のゼウスとエジプト神話のオシリスを合体させた神格である。厳密にはちょっと違ってて他の神とかも混じっているのだが、説明面倒なので以下を参照。
この時点で、イシスは港町アレキサンドリアの守護神となった。
http://www.moonover.jp/bekkan/god/serapis.htm
●「海の守護神」としての神格
ここまで来るとあとは流れがわかりやすい。名称としては Isis Pelagia =海のイシス Isis Euploia =良き航海のイシス Isis Pharia =ファロス島のイシス、などが知られている。ファロスはもちろん灯台の築かれたアレキサンドリア沖の島のことで、「ファロスの灯台」のファロスは、のちに灯台の代名詞となっていく。現在も英語などで灯台を意味する単語は、ファロスに由来している。
全盛期のアレキサンドリアは世界有数の大都市であり、地中海世界全体から船の集まる場所である。そのアレキサンドリアの守護神、海の守護者となれば、そりゃあ船乗りたちに人気が出るし、お守りだってガッポガッポ売れるわけですよ…。
よく知られているとおり、イシス女神はローマでも大成功を収めている。キリスト教が国教化される4世紀までは、主要な神々の中にいた。
船乗りの守護者、海の守り神としてのイシスはローマ帝国内に広まっていったのである。
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というわけで、イシスが海や船乗りの守り神になったのはプトレマイオス朝以降、アレキサンドリアの守護神に設定されてからで、信仰されたのはキリスト教国教化によって弾圧されるまでの間である。(その後も隠れてしぶとく生き残っていた形跡はあるが。)
期間にするとだいたい500年くらいの間なので、短いようでいて実はけっこう長い。
ただし、その500年の範囲は、「古代エジプト」や「エジプト神話」というよりは、その延長であるギリシャ・ローマ時代のヘレニズム的な信仰と言ったほうがよさそうだ。